納涼トッシキ祭り:ニクラス・ルーマン「単純な社会システム」

朝食。再度再訪。

10年後に書かれた SS 10章3節は ES に比べるとかなりいろいろ陳述が改善されていると思う。
しかし、いろいろ気にくわない。議論が分節化されて、問題山積みであることも表面化してしまった感じ。「観察可能なコミュニケーション」「間接的コミュニケーション」とかの術語をなんの説明もなしに投入しやがるし。
つーか な ん だ そ れ は。

本日のSSST

社会科学基礎論研究会の機関誌『年報 社会科学基礎論研究』の立ち読みサイトに、第4号所収の下記1本をリリースしてみたわけです:

年報社会科学基礎論研究 (第4号(2005年度))

年報社会科学基礎論研究 (第4号(2005年度))

納涼トッシキ祭り:ニクラス・ルーマン「単純な社会システム」

昼食。10章、再度再訪。


相互行為は〈再帰的知覚〉と〈コミュニケーション〉のからみあった二元的過程である。──って。どういうこと?

[100307]

相互作用システムも、コミュニケーションシステムである。のだが。
しかし。また相互行為では、

    • 再帰的な知覚-をとおして-コミュニケーションが強いられており、
    • 再帰的な知覚-によって、一種の「内部環境」に接近することが可能となっている。

「内部環境miliéu intériéur(© ベルナール)キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!

「一種の」て言うな!

コミュニケーションの営みは、「内部環境」を-とおして- 可能にされ・維持され・修正される。

ぜんっぜんわかんね━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!

再帰的]知覚とコミュニケーションは、それぞれに固有の遂行能力の限界内で、互いに負担軽減しあうことができる。このようにして、相互作用システムの内部では、コミュニケーションの強化が可能である。 相互作用システム以外の社会システムのばあいには、そうしたコミュニケーションの強化に等価なものはまったく見いだせない。

....(; ̄Д ̄)

google:『近代の観察』

1位に復活しておる。めでたい。

『近代の観察』

近代の観察 (叢書・ウニベルシタス)

近代の観察 (叢書・ウニベルシタス)


ついでのはてなスパム。

『社会の芸術』

現在1位。

ルーマン

一位に復活!おめ。>俺

ニクラス・ルーマン

現在3位。

社会学的告知>20050824 のようなもの研究会例会

おといあわせはベッチーまで。

なお、今年は有給はとりませんw。夜の部には出没するかも。

プログラム

1.話題提供(12:30‐13:30)[司会:苫米地伸(東京学芸大学他非常勤講師)]

  • 中村英代(お茶の水女子大学)「摂食障害をめぐるトラブルのミクロ・ポリティクス‐回復者の語りからみる、食をめぐる問題への意味付与の推移(仮)」

2.書評セッション(14:00‐17:00)[司会:山本功(淑徳大学)]

  • レビュアー1:藤巻祐規(早稲田大学)「意味のあり方への問い(仮)」
  • レビュアー2:山口毅(東京大学)「(未定)」
  • 著者による応答と、全体討論

納涼トッシキ祭り:ニクラス・ルーマン「単純な社会システム」

気を取り直してもう一度。
ASIN:4769908083(4&10章)。isbn:4787786113isbn:3531612816isbn:3531141767




〈居合わせること〉が相互作用の「選択原理」として働くには、「再帰的に知覚可能な意味」の 特に〈社会的な次元〉が大事だよ:

[100308] 10章3節〈居合わせる copresence / Anwesen〉ということ

  • 知覚とコミュニケーションのこのように素早く具体的な連携は、狭い空間においてしか生じえない。いうまでもなく、そうした連携は、知覚可能なものの範囲内でしかおこなわれない。
  • しかし、知覚されうるであろうもののすべてが、だからといってそれだけですでに社会的に重要であるわけはないのだから、知覚可能ということだけでは不十分である。
  • さらに別の選択原理がつけ加わるのであり、
    そうした選択原理として用いられているのは、しかるべきコミュニケーションの実現が期待されるということである。
    知覚可能なものを探るさいに考慮されるのは、いまそこで進行しているコミュニケーションの一要因となっていることがらなのであり、あるいは少なくとも、そうしたコミュニケーションの経過にとって意義あるものとなることができることがらなのである。
    別様に述べるなら、
    再帰的に]知覚可能な意味のとりわけ社会的次元が、選択の基準として用いられている。



それゆえ、このことから、相互作用システムの境界に関するいっそう精確な規定が可能になる。

  • この意味において、そこに居合わせていることが相互作用システムの構成原理であると同時にその境界形成原理なのである。
    そこに居合わせているということで意味されるのは、諸パースン18が そこに一緒にいるということが、[再帰的]知覚の選択をコントロールしており、何が社会的に重要なのかその見込みを明らかにしている ということなのである。
4章「〈主題選択〉の3次元」の話が参考になりそう。「再帰的に知覚可能な意味」と「主題の社会的次元」とがどのくらい関係するのかは不明だけど。



主題は、〈事項的/時間的/社会的〉な次元それぞれにおいて、コミュニケーション(における 参与者の寄与)を制序する事ができるよ。
事項的次元、時間的次元についてはこんなかんじ:[040606]
相互作用における「再帰的知覚というコンテクスト」において大事なのは社会的次元だよ。

[040607] 4章6節:〈主題選択〉の 社会的次元

  • とりわけテーマ選択の社会的次元が顕在化するのは、コミュニケーションをするさいに関与者たちが可視的な行為のやりとりをすることに多少とも拘束されているばあいである。
  • つまり、関与者たちがコミュニケーションによって、
    みずからの意見、みずからのかまえ、みずからの経験、みずからの願望、みずからの分別のある判断、みずからの関心など、
    自分自身についての何かを言い表すことで、この社会的側面が顕在化することになるのである。
コミュニケーションは、また自己を呈示し合い、互いに知り合いになることに役立っている。そうであるがゆえに、コミュニケーションは最終的な効果においては、人びとがなんらかの表現様式をとらざるをえず、結局のところコミュニケーションにおいて表示されたとおりに在らねばならないということになってしまうのである。つまり誘惑者は、相手を愛さなければならないことになる。

「コミットメント」ですな。
つーか...。なんかものすごいトリヴァイアルな話をしているような気が.....


[100305] 10章3節:The Impossibility of Not Communicating

相互作用システムは、再帰的な知覚をとおして*コミュニケーションを進めるよう強いられている。

自分が相手によって知覚されているということを他我が知覚しており、さらに、その知覚されているということをみずから知覚していることもまた相手によって知覚されているということを他我が知覚しているのなら、他我が出発点としなければならないのは、みずからの行動が、こうしたことにもとづき調整されているものとして相手によって解釈されるということである。つまり、

このばあい他我の行動は、それが他我にとって好都合であろうとなかろうと、コミュニケーションの一環として相手に理解される。
このことは、みずからの行動をコミュニケーションとしてもまたコントロールするということを、ほとんど不可避的に他我に強いるのである。そのばあいコミュニケーションするつもりのないコミュニケーションでさえ、なおコミュニケーションである。

すなわち他の人と居合わせているときに、指の爪を熱心に弄ったり、窓から外をみたり、新聞で顔を覆ったりするばあい[→自己関与((c) ゴフマン)]には 慣習に基づいた許可*が一般に必要である。そういうわけで、次のことがじっさいに妥当している。すなわち、

相互作用システムのなかではコミュニケーションしないでいることはできない14、もしコミュニケーションを避けようとするなら、そこに居合わせないことを選択しなければならない15

*「とおして」? 「慣習に基づいた許可」??? ──原文確認のこと。




うーん。
これで筋が通ると思ったが、だめみたい。
再帰的に知覚可能な意味」と「主題」の違いが議論のどこに効いてくるのかわからないなぁ。それも勘案して考え直すこと。
出直し。