涜書:サックス『会話についての講義』

Lectures on Conversation, Volumes I and II

Lectures on Conversation, Volumes I and II

1964年第3講義



おい俺の前の二人!はやくださないか。

涜書:ドレイファス『世界内存在』

夕食。ニクラス・ルーマンの相互行為論──への佐藤俊樹氏による批判 in『「社会」への知/現代社会学の理論と方法〈上〉理論知の現在』──をめぐる、旅の途中。
ドレイファスによるハイデガー存在と時間』のコメンタリー。

世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学

世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学

読了。発売当時にぜんぜん買う気もないままに──ドレイファスの既刊書は面白く読めた試しがなかったから──立ち読みですませていたんだけど。Anwesen とか Mitsein とかに関わる論点を確認したくて、あらためて購入して読んでみた。ら、なかなかよい本であったことを発見。しかしちょっとフッ君に厳し過ぎやしませんかね。コントラストついてて、話は分かり易いけど。
まぁハイデガー解説本としてのみ考えれば、かなりお勧めできるのではないかしら。

存在と時間』の解説本だといいながら、扱っているのは第1部第1篇のみ。でも、この方針もよく吟味されたものであって、賛成できる。

 特にこれ、『存在と時間』が、その後の(ある種の)20世紀社会学に与えた深甚なるインパクトを再考してみるには、格好の本かもしれない。

同時代の標的として、デイヴィッドソンやサールが選ばれているところも、その点に資する。たとえば、「ルール」や「行為の意図」について、ハイデガーならば──デイヴィッドソンやサールとは異なる──どんなことを言っただろうか、‥‥といった対照を介した書き進め方がされているので、社会学的論点との対照もしやすくなっている。

たとえばこんな箇所を読むと、察しが──つくひとには──つくでしょう:

ハイデガーが『存在と時間』で攻撃した考え方の一つはというと:]
人間のなすどんなことでも、そもそもそれが意味をなすものであればある潜在的な理論にもとづいている、というプラトンの考えと、プラトン的な理論がわれわれの心のうちで、志向的状態 および 志向的状態を関係づけるルール として表象されているというデカルトフッサールの考えとが結びつくと、次のような考え方が出てくる。つまり、

  • 共有されている振る舞いという背景がたとえ理解可能性のために必須のものだとしても、その背景をさらに別の心的状態を用いて分析できる、という確信を持ち続けていてよい

という考えである。背景的な振る舞いは、知というものを含んでいる限り、潜在的な信念に基づいていなければならないし、技能である限りでは、暗黙のルールによってうみだされているのでなければならない。このように考えていくと、志向的状態の全体論的ネットワーク、すなわち暗黙の信念システムという概念が得られる。このシステムが、規則的な人間の活動のあらゆる面の基礎にあるとみなされるのであり、日常の背景的な振る舞いの基礎ですらあると見なされているのである。暗黙の知──フッサールが『存在と時間』への答えとして「地平的志向性」と名付けたもの──は、認知主義者が整合的であろうとするときいいつも最後の頼みにしてきたものであった。[p.6]

とか。

現象学[的解釈学]は[科学的理論とは]反対に、日常的世界は──[科学的]理論の対象に勝るとも劣らず──自己充足的でありかつそれ自体で理解可能であることを示そうとする。他のなにものかを用いて日常的世界を理解可能とすることはできないし、またその必要もない。むしろ日常的世界こそが理論の可能性と位置を説明できるのである。世界こそ、われわれが直接了解するものなのであり、また、自然や道具や人格などがいかにして相互に適合し意味をなすかをも、世界によって知ることができる。それゆえ世界性ならびにそれと相関的な現存在による存在了解こそが、存在論固有の主題なのである。[p.139]

とか。
「自足的なもの*」は伝統的な「実体」の定義であり、デュルケームも「社会学の対象」を規定するのに、それを用いた。そして、経験科学が扱いうる「自足的なもの」として、彼は、「物」しか思いつかなかったから、「社会的なものを〈物〉のようなもの として研究せよ」という方針を出したわけだ。

 しかし、「自足的なもの」についての考え方を変更できるなら、デュルケームのこの議論は──「社会的なものを社会的なものとして扱え」という前提方針を捨てることなしに──捨てることができる。 つまり、日常的世界がそれ自体として理解可能であるのなら、その外に、「社会学するための基礎」を探しにゆかなくてもよくなる(だけでなく、そんなことをしてはいけない)。それを規定する「ルール」や「心的意図」や「信念の体系」に依拠する必要もなくなる(だけでなく、そんなことをしてはいけない)。 日常的世界は それだけでもう「社会学の対象」だ、ということになるし、またそう扱わねばならない。

そして、「ルール」や「心的意図」や「信念の体系」は──それらが日常生活を「支えて」いるのではなくて、むしろそれらのほうこそが──、日常の振る舞いにおける技能のほうから 扱われるべきだ、ということになる。

こうして20世紀の(ある種の)社会学が登場できるようになった、というわけです。(たぶん)



* ちなみに、ルーマンの『社会の社会』冒頭には、スピノザの言葉が掲げられている:
Id quod per aliud non potest concipi, per se conpici debet.
Spinoza, Ethica I, Axiomata II.