涜書:ハッキング『表象と介入』

夜食。
一章につき ひとつふたつづつ、地味なギャグが間欠的にかまされてておかしい。カナディアン・ジョーク?(謎

表現と介入―ボルヘス的幻想と新ベーコン主義

表現と介入―ボルヘス的幻想と新ベーコン主義

Representing and Intervening: Introductory Topics in the Philosophy of Natural Science

Representing and Intervening: Introductory Topics in the Philosophy of Natural Science

序論「合理性」、第9章「実験」、第10章「観察」。
9章はこれと一緒に:
熱学の諸原理 (物理科学の古典 4)

熱学の諸原理 (物理科学の古典 4)

熱学思想の史的展開―熱とエントロピー

熱学思想の史的展開―熱とエントロピー


■序論「合理性」

  • 「理性的」は評価語ではない用法がある。「非理性的」はおもに評価語。[p.26]



■第9章「実験」

  • クールなハッキング(^_-)v:

科学的方法とは何か。それは実験的方法なのか。この問は立て方がまずい。なぜ科学の唯一の方法が存在しなければならないのか。家を建てるのに、またトマト栽培でさえ、たった一つの方法しかないわけではない。われわれは知識の成長のように様々なものが混じっているものが一つの方法論に縛り付けられることなどを期待すべきではない。[p.248]

  • カナディアンジョーク(?):

[p.251]

  • 歴史の書き換え:

[p.261]

  • カナディアンジョーク2:

[p.270]






■第10章「観察」

観察と理論の間には、多くの区別がある。純粋な「観察言明」という哲学的観念は すべての言明は理論負荷的であることを根拠に批判された。これは攻撃の根拠としてはまずい。前理論的観察言明はたくさんあるが、それはめったに科学の年報・紀要には登場しない。[p.272-3]

  • 「見ることseeing」という概念:

ベーコンは直接知覚できるものと、単に「呼び出す」ことしかできない不可視の出来事との区別を知っていた。この区別はベーコンにとって明白なものでもあり、些末なものでもあった。それが本当に重要になったのはようやく1800年以後のことであることに関しては いくらかの証拠があるが、その頃に「見る」という概念が いくらか変形を蒙っているのである。1800年以後は、見るということは事物の不透明な表面を見ることであり、すべての知識はこの道を経てやって来なければならないのである。これは実証主義現象学の双方に取っての出発点である。ここでは前者だけに関係がある。われわれは推論と肉眼で(あるいは補助を用いない他の感覚で)見ることとを明確に区別することの必要性を実証主義に負っているのである。[p.274]

「概念の変容」キタ━(°∀°)━!

  • 言明、記録、結果

ファイヤアーベントの「事実の言明、観察報告、実験結果」は 同一の種類の事柄でさえない。それをひとまとめにしてしまえば、実験科学の中で進行していることに関しては、どんなことに注目することもほとんど不可能になる。[‥]




産まれてからこの方、「テーブルは茶色である」とか「テーブルは茶色に見える」というような文を私が語ったことがあるか疑わしいのである。私は適切な光の下でテーブルを見る時にはじめの文を語る習慣を持っていないのは確かである。[p.282-5]

「同一の種類の事柄ではない」キタ━(°∀°)━!

お買いもの:デリダ/スティグレール『テレビのエコーグラフィ』

1900円也。

マスメディアによるアーカイブ(記憶)とアクチュアリティ(時事性)の間断なき創出により我々は全く新しい「経験」を埋め込まれようとしている。▼デリダの言葉を借りれば、それは「人為的時事事実性」ともいわれるべき現象である。我々もしくは歴史家が出来事をきちんと記述する以前にメディアは選別し、同時代的に地域という出来事の枠を広げて共有されてしまう。▼デリダの批判と洞察はそこにある。今一度「われわれは何を記憶すべきでなにを思考すべきなのか」原点にもどることが希求される。

まぁなにゆてーるかわからんわけですが。

涜書:ハッキング『表現と介入』

夕食。眠い。

13章「現象の創造」、14章「測定」