涜書:ハッキング『表象と介入』

夜食〜朝食。

表現と介入―ボルヘス的幻想と新ベーコン主義

表現と介入―ボルヘス的幻想と新ベーコン主義

Representing and Intervening: Introductory Topics in the Philosophy of Natural Science

Representing and Intervening: Introductory Topics in the Philosophy of Natural Science

15章「ベーコン的主題」、16章「実験活動と科学的実在論」。
第1部「表現すること」へ。1章「科学的実在論とはなにか」、2章「建築することと原因となること」
あと、『文士と官僚―ドイツ教養官僚の淵源』をぱらぱらする。


16章「実験活動と科学的実在論

  • [p.442-3]

教訓

 昔々電子が存在することを疑うのはまことに道理にかなっていた。トムスンが彼の粒子の質量を測定し、ミリカンがその電荷を測定した後でさえ、疑いには意味があった。われわれは、ミリカンがトムスンと同じ存在を測定していることは確かだと思う必要があった。理論上の一層の精巧化が要求されていた。その考えは多くの他の現象に適用してみる必要があった。固体物理学、原子、超伝導 ──すべてがその役割を演じなければならなかった。
 昔々電子が存在すると考えられる最善の根拠は説明における成功であったかもしれない。われわれは第十二章においてローレンツが彼の電子論でファラデー効果を説明した有様を見た。私は説明する能力は真理の保証をほとんど伴わないといった。既にJ・J・トムスンの時代からそうであるが、説明より更に重視されるのは測定であった。

説明は確かに助けにはなる。ある人々は電子の存在を仮定するなら極めて多様な現象が説明できるだろうということが理由で電子の存在を信じなければならなかったのかもしれない。幸せなことにわれわれはもはや説明の成功から(すなわち、われわれの精神状態を良好にするものから)推論するふりをする必要はない。

プレスコット及びその共同研究者達は電子で現象を説明しはしない。彼らはその用い方を知っている

  • [p.447]

 ベイン[が1970年に『論理学:演繹的および帰納的』を書いた時、それ]は確かに一世紀前には正しかった。当時は物質の微細な構造は証明できなかった。証明は間接的なものでしかあり得なかった、すなわち、仮説はある説明を提供するように見え、またすぐれた予測をする助けとなった。こうした推論は道具主義、あるいは他の種類の観念論に傾いている哲学者に確信を生じさせるとは限らない。

 実際、状況は17世紀の認識論と実によく似ている。その当時知識は正しい表現として考えられた。しかしそうだとしても表現が世界に対応していることを確かめるため表現の外部に出ることはできなかった。表現のテストはすべてただ別の表現なのである。バークリー主教が言ったように、「なにものも観念に似ているのではなく、観念なのである。」 理論、テスト、説明、予測の成功、理論の収束、等々の水準で科学的実在論を論証する企ては表現の世界に閉じ込められる定めにある。科学的反実在論がかくも変わることなく勝利の見込みを保持しているのも不思議ではない。それは[デューイの謂う]「知識の観客理論」の一変形なのである。

 哲学者とは対照的に、科学者は1910年には一般に確かに原子に関して実在論者となった。変化する風潮にもかかわらず道具主義または虚構主義というような多様な反実在論が1910年と1930年に強力な哲学的代案として残っていた。それは哲学の歴史がわれわれに教えていることである。その教訓はこうである──理論についてではなく実践について考えよ

原子に関する反実在論はベインが一世紀前に書いたときには極めて分別あるものであった。当時は顕微鏡下のどんな存在に関する反実在論も正常な学説であった。事態は今日では異っている。

電子及びこれに類似のものの「直接的」証明は、よく理解されている、レベルの低い因果的諸性質を用いてそれらを操作するわれわれの能力である The 'direct' proof of electrons and the like is our ability to manipulate them using well-understood low-level causal properties*。

私はもちろん実在は人間の操作可能性によって構成されていると主張してはいない。電子の電荷を決定するミリカンの能力は電子の観念に対して極めて重要なあることを行った。私の考えではローレンツの電子論以上である。あるものの電荷を決定することはそれをなにか他のものを説明するために仮定することに比べて遥かに強くそのあるものの実在を信じさせるのである。ミリカンは電子の担う電荷を得る。いや、もっと状況はよい。ウーレンベックとハウトスミットは1925年に電子に角運動量を割り当て、沢山の問題をあざやかに解く。それ以来ずっと、電子はスピンを持っている。決着をつけてくれる事柄は、われわれが電子にスピンを置き、電子を偏極させ、それによってわずかに異った比率で散乱させることができるとき、そのとき存在する。

* いみがわからん。

「The 'direct' proof of electrons is our ability to manipulate them」
→我々が電子を──因果的性質を用いて──操作できるというそのことがもう、電子の存在の「直接の」証明になっている(てこと?)


第2章「建築することと原因となること」。

  • [p.62-4]

 囚果主義は社会科学では未知のものではない。基礎を築いた先達の一人、マックス・ウェーバー(1864-1920)を取り上げてみよう。彼は名高い理念型の学説を抱いていた。彼は「理念的」という言葉をその哲学上の歴史を十分に自覚して用いていた。彼の用法ではそれは「実在的」に対立している。理念は人間精神の創案であり、思考の道具である(まただからといって劣ったものになる訳ではない)。われわれの時代におけるカートライトとまさに同様に、彼は「社会科学の目標は実在の『法則』への還元でなければならぬとする自然主義的偏見に真向から反対」していた。マルクスに関する注意深い考察の中で、ウェーバーは書いている──

特にマルクス的である「法則」と 発展的なdevelopmental 構成の一切は、理論的に健全である限りは、理念型なのである。これらの理念型が実在の評定のために用いられた際の卓越した、むしろ発見的な意義はマルクス的概念と仮説を使用したことのある者ならだれもが知っている。同様に、それらが経験的に確かな、あるいは実在的な(すなわちまさしく形而上学的な)「有効な力」、「傾向」、等々として思いなされるや否や生じる害悪はそれらを用いたことのある人には同じく知れ渡っている。[『客観性』1904]

 マルクスとウェーパーとを一度に引用することによって招く論争を上回る論争は滅多に惹き起こすことはできない。とはいえ、例として取り上げた狙いは控え目なものである。その教訓を列挙することができるだろう。

  1. スマートのような唯物論者は社会科学上の諸存在の実在性に直接的な意味を付与することができない。
  2. 因果主義者にはできる。
  3. 因果主義は実際には理論的社会科学でこれまでに提案されたどんな存在の実在性をも拒否するかもしれない。唯物論者と因果主義者は同様に懐疑的であるかもしれない──その基礎を築いた先達らより以上にという訳ではないが。
  4. 理念型に関するウェーバーの学説は社会科学上の法則に対して因果主義的態度を表明する。彼はそれを否定的なやり方で用いる。たとえばマルクスの理念型はまさしくそれが因果的な力を持たないために実在的ではないと主張する。
  5. 因果主義者はある社会科学をある物理的科学から、後者はその因果的性質が良く知られている若干の存在を見出しているが、前者はそうではないということを理由に、区別するかもしれない。

 ここでの私の主な教訓は、少くともある科学的実在論は「実在的」という言葉を、オースティンが[『センスとセンシビリア』において]標準的であると主張したのと殆んど同一の用法に従って使用することができる、という点にある。[オースティンがそう指摘したのと同様に、]この言葉は特に暖昧である訳ではない。特別に深遠だというのでもない。それは 実詞に飢えたズボン語substantive-hungry trouser-word である。それは 対照contract を指定する。どんな対照を指定するかは、それが修飾する、もしくは修飾するためにそれが選ばれている名詞もしくは名詞句Nに依存する。更にそれはNであることに対する様々な候補者がどんな具合にNになり損ねているかにも依存する。

哲学者が新学説、あるいは新しい文脈を提案しているのであれば、なぜ力線が、あるいはイドが実在的な存在になり損ねているのかを詳細に述べなければならないだろう。スマートは存在とは建築のためのものだと言う。力ートライトは惹き起こすためのものだと言う。二人の著者は、異った理由によるにせよ、実在的な存在に対する様々な候補が、実際に、実在的であることを否定するだろう。両者はいくつかの諸存在に関して科学的実在論者である。だが、彼らは「実在的」という言葉を異った対照をもたらすために用いているので、彼らの「実在論」の内容は異っている。[同じことは反実在論についても生じている→ 3章以下へ]

概念分析キタ━(°∀°)━!

「他人の心」も参照のこと:http://d.hatena.ne.jp/contractio/194601

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なぜこうなのかってなにがどうなのか。
なにしろ「会社」と「OL」が同格の扱い、ってとこがとりあえずなんとなくすごい。

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社会学的告知>公開シンポジウム「ニート−何が問題なのか」

ニート祭り

東京大学大学院教育学研究科 教育研究創発機構 共催

人文社会プロジェクト「日本の教育システム──教育の失敗」
公開シンポジウム「ニート──何が問題なのか」

  • 日時: 10月1日(土) 13:00〜17:00
  • 場所: 東京大学本郷キャンパス 赤門総合研究棟 2階 200番教室


昨年から今年にかけて、「ニート」(NEET, Not in Education, Employment or Training)に対する社会的注目がきわめて高まっている。しかしその実態や原因・背景については、いまだ明らかでない面も多い。また、日本における「ニート」の語られ方にも独特な面があり、そのような「ニート」言説そのものが特定の社会的帰結を生み出しつつある可能性もある。「ニート」の何が問題なのか。この問いに対して正面から取り組む作業が、いま必要とされている。
本シンポジウムでは、「ニート」問題に詳しい論者にそれぞれの角度から「ニート」に対して新しい光を当てていただき、その実態や背景について認識を深めるとともに、「ニート」言説を相対化することを試みる。そして「ニート」という「窓」を通して、日本の教育および教育研究の何が「失敗」ないし「成功」であったのかを透かし見ることをも、もうひとつのねらいとする。

※会場整理の都合上、参加ご希望の方は下記連絡先までご一報ください。

  • 教育研究創発機構
    • 〒113−0033 文京区本郷7−3−1
      東京大学大学院教育学研究科附属学校臨床総合教育研究センター内
      Tel 03−5841−3916 FAX 03−5804−3826
      Email: kikou@p.u-tokyo.ac.jp http://www.p.u-tokyo.ac.jp/kikou/