- 作者: 飯田隆
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2005/09/10
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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論理学と哲学の最前線
20世紀、論理学と哲学を横断して起きた「知の革命」。パラドクス・無限・不完全性と完全性・言語と論理・計算機科学と論理学などをキーワードに、論理をめぐる哲学探究の刺激に満ちた現在を、気鋭の著者陣が解説する。
最前線キタ━(°∀°)━!
論理学と哲学の最前線
20世紀、論理学と哲学を横断して起きた「知の革命」。パラドクス・無限・不完全性と完全性・言語と論理・計算機科学と論理学などをキーワードに、論理をめぐる哲学探究の刺激に満ちた現在を、気鋭の著者陣が解説する。
最前線キタ━(°∀°)━!
(サブ)タイトル買い。
民主制のディレンマ―市民は知る必要のあることを学習できるか?
投票者は政治についての単純な質問に答えられない。議員は立法の細部について思い出せない。陪審員は法的議論について理解できない。このような観察は豊富であり,何世代にもわたって学会の権威がこれらの観察を,投票者,議員,そして陪審員が無能であることを主張するために用いている。 この『民主制のディレンマ』において,アーサー・ルピアとマシュー・マカビンズは複雑な争点について,市民がどのようにして意思決定を行うかを説明している。彼らは経済学,政治学,そして認知科学からの知見を交えた上で,学習と選択についての理論と実験を発達させている。彼らはその分析道具を理性的選択(reasoned choice)のための必要条件を明らかにするために用いている。理性的選択とは,彼らが確かな(多分大きな)知識水準を持っていたなら行うと思われる選択である。彼らの研究成果は投票者,陪審員,議員の能力に関する議論を明快なものにするとともに,政治制度の設計が市民による効果的な統治の能力にどれほどの影響を与えるかを明らかにしている。
『マスメディアのリアリティ』はどうなった。
夜食。
タイトルは「すごい学歴社会」の意でありました。企業の人事担当者への取材にもとづいていて、なかなかおもしろいです(中盤くらいまでは)。 あと、採用のことだけじゃなくて、昇進の話も扱ってる点も吉(後者は調べるのがむずかしいと思われる)。
採用の実態が不透明なのは、その実施方式に大きな理由がある。企業の採用試験は、[‥] いつ試験をやって、いつ合格発表があるというふうに、事前に日程が明らかにされているわけではないからだ。[‥] 説明会出席後の採用試験の進め方や採用基準は、依然闇の中である。
就職活動をする側の学生からすれば、一番困るのは採用・不採用の“基準”がまったくわからないことではないだろうか。ほとんどの企業面接において、学生の側には合否を判断する基準が何ら与えられていないからだ。さらに、学生は「自分は落ちたのか」を確認することすらできない。それは、「来週中に連絡がなければ、ご縁が無かったものと思ってください」といった、きわめて曖昧なものいいしか、企業はしないからである。[p.011]
「そんなことも知らんのか!」と逆に驚かれそうだが。
みんなすごいね。(たい)ヘンだね。よくつきあってるね。
ところで東大のひとは いちいち「東大だから」とか「東大なのに」とか引き合いにだされてご苦労なことですな。
いま、アマゾンのレビューをみてみたところ、「ここに書いてあることなんて常識じゃん」という声がいくつかあった。そうでもないと思うけどなぁ。
人事担当者の置かれた状況──たとえば、有名大学出身者を採用しないと自分の人事評価(!)が危うくなる(!)という社内圧力──の話とか、面白かったけどな(っつーか、こいつらあほかw&さもありなん──管理職の姿勢がかわんないんだから、会社も変わらないわなそりゃ──、と)。 「あるべき姿」を語るのではなくて、「実際どうなのよ?」ということをちゃんと調べよう、という基本姿勢もちゃんと(或る程度)貫かれていてるし。
前半のほうに出てくる、「いくら教育コストをかけてみても、ほとんどの人にとってそれは見合わない」(大意)
ということまで含めて「みんなの常識」になった場合に
日本の社会がどうぶっ壊れるだろうか とあれこれ想像してみると、なかなか愉しい。
日本はなぜ諍いの多い国になったのか - 「マナー神経症」の時代 (中公新書ラクレ (184))
「社会学と人類学 全2巻」(マルセル・モース)
【投票情報】(現在64票 復刊交渉開始まであと36票)
昨日1票の投票がありました。
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=18927
俺の素朴な疑問にだれか答えてください。
ていうかなんでみんな でかい会社に入りたがりますか。そこがそもそも間違いのはじまりのような気が。
昼食。今日も元気に糞本を読める幸せ。
大学の先生が、すべて賢者、つまり「世の移り変わりに盲従したり政治の表面に出たりせず、宇宙の哲理を見抜いて静かに暮らす」なる人物である必要は必ずしもないであろう。また、実際にはそのような人はまずいない。
だが、現在の私学(殊にオーナー学園)の大学教授(といえるのかどうか)について「愚者も千慮に一得あり」などの言い草をあてがい、仮にでも擁護しようとするなら、大学教授亡国論を振りかざすだけではすまないであろう。大学教員の虚業家ぶりを見るにつけ、呆れ果てるのは筆者一人ではない筈だということを強調したい。[p.25]
・・・というような抽象的(?)罵倒文言が延々と278頁。
糞本であることは言うまでもないといってよい、と考える関係者が少なくないと伝え聞くひとがいてもおかしくはないのではあるまいかと言い得るかどうか定かではないとしても、しかしともかくも 人生を賭け・身体を張った逆に*1精一杯の拍手を送りたい。と言ったら言い過ぎだろうか。逆に。
といったことはさておきひたすら眠い。
*1:もとい。ギャグに。