涜書:『ハッキングの魂を書き換える』

いろいろなものが私の処理能力を超えていてヤバい。とりあえずひとつづつ片付けつつ夜食。

Rewriting the Soul: Multiple Personality and the Sciences of Memory

Rewriting the Soul: Multiple Personality and the Sciences of Memory

記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム

記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム

4章と10章における転回点について再考:

涜書:西阪仰『相互行為分析という視点』

べつの探し物をしていたら数年ぶりに見つかって(読んで)しまった。
これはやはり名著ですな。

相互行為分析という視点 認識と文化 (13)

相互行為分析という視点 認識と文化 (13)

いつも「引用しよう」と思って──首尾一貫して──しそこねてきた*箇所を、将来の俺のためにアップしておく。


私は、「システム」とか「オートポイエーシス」とか「作動的閉鎖」とか「機能分化」とかといった類いのドキュン・ワード的ルーマニ屋ジャーゴン──わたしが謂う所の*1DQNアトラクター」たち──(引用以外での)使用を 自らに対して 禁じているが、私の想像力を遥かに超える危機的な事態が私を見舞い どうしても使わざるを得ない(そうしないと死ぬ)というような窮地に追い込まれたときには、これ↓を「典拠」として使うだろう。──という箇所:

1章 相互行為分析という方法 2節 社会秩序の局所的な達成

 社会秩序は、相互行為内のふるまいが、さまざまなことがらを観察可能にしながら次々に接合されていく、そのしかたのうちにある。相互行為の進行は、たんに物理的な時間空間への出来事の(偶然的な)配置としてあるのではない。

  • それは、ふるまいがそのつど観察可能にされる意味もしくは理由説明(アカウント)によって貼り合わされていくところに、成立する。
    • しかも、その観察可能にするという操作は、それ自体相互行為内の具体的ふるまいによって担われている。
    • と同時に、ふるまいは、この操作によって他のふるまいに接合されるときはじめて、その相互行為内のふるまいになるのだ。

相互行為の進行は、そのかぎりで、操作的に閉じたシステムをつくっている。このような操作的に閉じたシステムにおいて、そのつどその操作がおこる場所を指して、「局所」と呼ぶことにしたい。そのつどのシステムの全域はいわば局所的な操作の「パッチワーク」として達成される(Lynch、1993*参照)
 ところで、いま[=章冒頭の事例]は電話での会話が、ここでの当該システムとなっている。しかし、そのつどの「当該」システムの境界は、たとえば、電話をかけてから電話を切るまで、というふうに、機械的に決まるものではない。それはあくまでも、そのつど観察可能にするという操作によって「局所的」に達成されるほかない。したがって、当該システムが、会話、あるいはいわゆる「対面的」相互行為でなければならない理由はない。[p.42-3]

私はここで、なにも、そのつどの当該場面設定を「超えた」と通常いわれることがら(歴史的・社会的背景、いわゆる社会のマクロ・レベルにかかわることがら、など)の存在を、否定しようと言うわけではない。ただ、そのようなことがらも、「局所的」に彫琢され、「局所的」な組織化をとおして、あるいはかかる組織化として、現実的(リアル)なものとして達成されるほかはない、というのが、わたしが本書を通じて主張したい基本的な論点である。[p.46]

ここは、EMの基本的な主張──そしてこの著作の課題──が手短に書きとめられている という点で まずは、重要な箇所である。
 しかしここはまた、ルーマニ屋にとっては 特別に・ことさらにはげしく・決定的に・死ぬほど 重大な箇所である。なにしろここで御大は、エスノメソドロジーの基本的主張を、なんと こともあろうにルーマニ屋ジャーゴン定式化している(!)のであり、そしてまさにそうすることによって、その主張が 同時にルーマンが謂う意味での)「オート■イエーシス」の規定を すっかり満たしていることを──ほとんど明示的に、と言ってかまわないだろう仕方で──述べているのだった。

「作動的に閉鎖したシステム」は、EMの文献では、ふつうまずお目にかからない術語である。 この段落はだから、いわば「かつてルーマニ屋で(も)あったときの記憶」が書かせた──大げさに言えば──「ルーマニ屋への贈り物」なのである。 や‥‥ちょっと大げさか。


このことは複数の仕方で重要な意味を持つ。

  • まず、著者がEM界の重鎮だ、ということがある。「ルーマン -と- EM」という並記は、EM者とルーマニ屋双方の側で不評を買いうるものだが、すくなくともEM者側には「しかしきみらの重鎮がこう↑言っているではないか」とカマすことができる。これで、とりあえず相手をしてもらえる可能性はグッと高まるだろう(.....だといいな。とりあえず今のところ、わたしに関してのみ言えば、「相手をして貰える度」は日を追って増大している、と思う、と 日記には書いておく)
  • そしてまた、定式がルーマニ屋ジャーゴンで行われていることにより、ルーマニ屋は、この箇所を強力な指針として、EMジャーゴンのルーマニ屋語翻訳にとりかかることができる。
    つまり、EM文献で「局所的な」という言葉にお目にかかったら──これは実際しばしばお目にかかるきわめて基本的なジャーゴンだが──、ルーマニ屋は「おぉ。目下の議論における準拠システムはこれか」「ふむふむ。ここでは作動的閉鎖を例示しているのだな」と読み替えながら、読み進めることができる。「相互反映性」という語がでてきたら、「ここでは〈オートポイエーシス〉について語られているのだな」と読み替えればよい。そして、この──EM とルーマン双方にとってもっとも重要な──ポイントをテコに、首尾一貫した翻訳作業によって、EM者とルーマニ屋の仕事を比較検討することができる。
    ちなみに、こうした作業を通じて「EMの洞察に学ぶルーマニ屋」のことを、「ルーマンEM派」と呼ぶ。(俺が。) 固有名で権威づけがしたい場合は「ルーマン西阪派」でも可。

というか重要なので銘記しておこう:

  • EM者が例を挙げながら「局所的な秩序」について語るとき、そこで彼/女たちは、
    「どのように作動的閉鎖が生じているのか」ということの具体的な例解を通じて、
    読者に「それはどのような〈システム〉なのか」を理解させようとしているのである。
    そしてこの具体的な例示的解明(=例証)こそが、ルーマニ屋がほとんどまったくといってよいほどやらないもの
    そしてまずはまさにそのことによって、ルーマニ屋とEM者のスタンスを、はっきりとした仕方で──しかし(方針に直接由来するわけではないという意味で)外在的な仕方で──分かつもの
    なのである。
    だ・か・ら、ほとんどのルーマニ屋は、「自分たちが〈システム〉と呼ぶ当のその対象は、しかしどうやったら記述できるのか」について、知らない。そして/にもかかわらず彼/女たちは〈システム〉(なるもの)について平気で語る=騙るのだ。これは恐るべきことである‥‥とわたしはおもう(が あなたどう思うか)。
  • そして最後に、この本自体がEMの書として、そして社会学の書として、たいへんな名著である、ということがある。ルーマニ屋は、上記の「首尾一貫したやりかた」で作業を進めることでもって、この本から多大な恩恵を受けることができる。──というわけだ。
  • 否。さらに最後に──


現状、ルーマニ屋のごく少数が「ルーマンの遺産をどう運用したものか....」と考え、さらにごく少数が「しかも経験的な学としての社会学において、ルーマンの遺産をどう運用したものか」と悩んでいるわけだが、

そして他のほとんど(おそらく──そして恐ろしいことに──圧倒的多数)の人は、「経験的な学としての社会学」とは関係ないことを考えているわけだが、
それはまぁそれでやっていただけばよいのだけども、

この本を読めば、「作動的閉鎖」というルーマニ屋にとってもっともコアな着想を共有しながら、しかしEM者は遥か先を走っている、というそのことに気づいて愕然とすることができる。これがもっとも重要なことかもしれない。
この覆いようも無い距離の差をちょっとでも埋めようと思うなら、「社会学 v.s ルーマン」とか

めったにないけど「EM v.s ルーマン」とか

いった(偉そうな)対立軸でものを考えていてはいけない。だってルーマニ屋は、そもそもまだEMと同じ土俵に上がれてすらないんだから。そのことにまずは驚くべきなのであって、だからルーマニ屋には「独りで」悩んでる暇などない。‥‥と私は思うけどね。(あなたどう思うか。)


今更ながら、ルーマニ屋必読書として強力に推薦する次第。
みんな(特に若い人)、もっとまじめに焦ろうよ。>ルーマニ屋
というか悩まなくてもいいよ。その暇があるならEMも勉強しよう。(>特に若い人)
「〈オートポイエティック・システム〉の記述の作法」は、彼らが教えてくれる──そして、ルーマンは教えてくれない──よ。




【追記】2006/11/21
こんな論文もあった。
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20061121/1164087365

*1:©西田、宮台 et al.