第五回出版準備研究会(糸冬了)

ここ数日、土曜日の研究会──フーコーとハッキングに学びつつエスノメソドロジーの 自 然 な 拡張を図りましょうという研究会──のオーディオファイルを聞きながら、いくつかの問いを──あるいは区別について──反芻している。


ひとつはフーコーの〈savoir/connaissance〉。もうひとつはライルの〈活動/達成〉。
双方ともに「記憶(-の科学/-の政治学」と関わるかたちでハッキングの『魂を書き換える』に登場するものであり、これが今回の研究会における主要テーマだった*。

* 「再記述」アンスコムと「歴史的アプリオリ」を加えてもよい。


 ハッキングは『魂』のなかで、〈savoir/connaissance〉という区別を チョムスキー的な〈深層/表層〉という区別に重ねたうえで、「記憶の科学」における〈深層の知識/表層の知識〉について語る。この議論の構え自体は穏当とは思えない(言い換えれば要するに、私の気には喰わない)もので、フーコーの解釈としても

構造主義的な」解釈として、あ_り_う_る ものであることは認めたうえで、しかし

疑わしい。

少なくとも、経験的な研究というコンテクストの中では、この発想は──直観的にいって──著しく使い勝手が悪い。EM的ポリシーとも 折り合いが あからさまに悪い。

 ‥‥ということをすべて折り込んだ上で、しかし、「ハッキングのやり方のよいところはどこで、それはどういう点でよいのか」

そしてそれは──できることならば──、どういうふうに〈真似〉できるのか

というのが、研究会のひとつの焦点だった。


ライル(とアンスコム)の使い方についても、これとおおむね似たことが言えて──そして、まさにそこをリンチやシャロックといったEM者たちにツッコまれてい──るのだが(以下もったいないので略


 詳しいことは ここには書けないけど、数時間にわたる討議の結果たどりついた暫定的な結論とそこに着くまでの道のつけ方は、私をいささか感動させるものだった。ひとつは、ハッキングの議論が分かりにくくなってしまった──だけでなくおそらくは不十分になものにとどまっている──その理由が、ハッキング自身による「表層の知識」への「介入」の仕方(と立ち回り方)と、そこから還ってくるやり方の詳細に焦点化された、という点。そしてもうひとつには、やや距離のある この二つの区別を──それがまさに直前に指摘した点と関わる事をもって── 一つにつながる議論を構成できた点。
 もしもこの議論がただしくて──それは、これからさらに吟味が必要だ──、我々がハッキングの仕事を適切に理解できるならば、おそらく我々は、それを適切に修正することもできるだろう。


‥‥いやーしかし。難しい話だった。
まだまだ勉強せねばならぬことが山ほどあるということは確認できた(哀


ところで「フーコーは『知の考古学』だけすごくヘン」という点ではみんなの意見が──私も含め──一致していた(かな?)のがおかしかった。

私が編集者だったら、「君が方法論の本なんて書く必要ないよ。考え直せ。」と言って──親切にも出版を断って──あげたのに。

涜書:ラントグレーベ『現象学の道』

といったこむつかしいことを連日考えたら知恵熱がでてきたので、こういうときは馴染んだテキストに逃避するに限るとかとおもいつつ、段ボールの奥からラントグレーベを引っ張りだしてきて──幸いすぐにみつかったので──読んでいた本日の朝ではあったのだが。

現象学の道―根源的経験の問題 (思想史ライブラリー)

現象学の道―根源的経験の問題 (思想史ライブラリー)

「構成の二義性」なんて論文載ってないじゃんw。
これ↓も嘘だったらしい:
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060130#1138621999
ならどこにあるのだ。ひょっとしてそもそもこの世にそんなものは存在しなかったとか?(←飛躍)