涜書:渡辺『図解雑学 ゲーム理論』

夜食。俺が図解のお勉強をするスレ。略称なし。

ゲーム理論 (図解雑学)

ゲーム理論 (図解雑学)


といったことをさておいても、なんとこの本図解のくせに 良書なのではあるまいか。
なんかちょと得したきぶん〜(゚ー゚*)

涜書:片桐雅隆『認知社会学の構想』

夕食前半。

認知社会学の構想―カテゴリー・自己・社会

認知社会学の構想―カテゴリー・自己・社会

あわてていちおう読了、は したものの。
なぜ「認知」なの? ってのを いつかはどこかで言ってくれるだろうと思いながらよんでいたんだけど、結局最後までまったく不明なまま 本がおわってしまったよ(哀。
なんかは言っといてくれないと。困りますよもー。

p.10-11

なお、ここでの「認知」という言葉は、「カテゴリー化による対象の有意味な解釈(interpretation)」のことをさしている。しかし、本論でも指摘するように、認知的な作用は実際には、行為の方向づけ、規範、感情などと意に結びついている。したがって、認知という側面は、理論的にのみ析出しうることを断っておこう。

この文章を理解するのは難しい。が、ともかくもこれは、「認知」という言葉でもって、著者がなにを指すつもりであるかを述べた宣言文であって、なぜそれを指すのに「認知」という言葉を使うのかという理由を述べた文ではない。


「要するにだから【認知主義】との関係はどうなってんのよ?」という疑問に触れているのは、たとえばここ。

p.50

認知科学が、スキーマなどの認知枠組を自己の内部に蓄積された情報処理のための表象と見るのに対して、シンボリック相互作用論は、その枠組が他者との相互行為において修正されたり強制されること、そして、認知的な知覚や処理が相互行為を形成することに注目しようとした(‥)。

おおまかにいえば、「認知社会学は認知主義とは違う」という主張にみえる。
でも、これは「答え」になっているわけではない。むしろ謎を深めるものだ。
あえて好意的に解釈するなら、

  • 認知心理学」と「認知社会学」は、
    • 同じ“認知という作用なるもの”を対象としているが、
    • 後者が「相互作用」の相のもとで対象をみる点で異なる

といっているように読めはする。 なるほど もしも「同じ」なのであれば「認知社会学」を宣言することに意味はある。しかしそうなのかどうなのか、テクストを読んでもわからない*。

しかしそもそも、「その枠組が他者との相互行為において修正され」たりしないことを想定している心理学者など存在するのだろうか??


そうかとおもえば著者はまた、認知科学的なジャーゴンを「定義」のために使ってしまったりする。その例のひとつ:

p.33

われわれは、相互の成員がどのようなひとかを示す見取り図としての役割を、従来の役割概念から区別するために「役割カテゴリー」と呼び、それを「自他関係の認知地図(=認知枠組)」と定義した(片桐 2000:ch.2,3参照)。

片桐2000てのはこれ:

自己と「語り」の社会学―構築主義的展開

自己と「語り」の社会学―構築主義的展開

* そうなってしまうのは、著者が、「認知」なる概念は前提にしたうえで-なにかほかのことを-議論しているからではないだろうか。だとすれば/ということはつまり、「認知社会学」では「認知」は──トピックとしては──扱わない といえてしまうことに ‥‥なりませんか。



目次

  • 序 章 認知社会学の問い
  • 第1章 自己論
  • 第2章 相互行為論
  • 第3章 相互行為論・その源流
  • 第4章 ステレオタイプ
  • 第5章 集合体論
  • 第6章 自己の同一性論
  • 第7章 集合体の同一性論
  • 終 章 カテゴリー・自己・社会

いやぁ。見事に「グランドセオリー」な目次ですね。

お客さま

「メンバーシップ カテゴリー装置」、と覚えてください。

迂遠な応援痛み入ります。

識者のご教示を請う。【京みがわ】の抹茶プリン でいいんでしょうか。味はもう覚えてません。