涜書:ボルノー『ディルタイとフッサール』

あいかわらず『論研』も『真理と方法』も出てこない。かわりに(?)これが見つかったので読んでおく。

ディルタイとフッサール―20世紀哲学の源流

ディルタイとフッサール―20世紀哲学の源流

  • 一行要約: ディルタイフッサールは、相互に・直接的に影響を与えあいながら、おなじ言葉を相当に異なる仕方で使うようになりました。困ったもんですね。」


トリアーデ登場。

II 晩年における生の範疇 - 4 表現

 中心的な体験のもつ 意義[Bedeutung] を軸としながら人が自己発展に努めていると、生はいわば自ずから形成されるであろうが、しかし、それとは違った形成の仕方もある。その場合、

生は、眼で見、耳で聞くことの出来る〔外的〕世界の形成物となって自ら進んで客観化されるとともに、この客観態のなかで自らを形成してゆく。だからこそディルタイは生が自ら行う表現について何度も語っている。もっともこれは誤解を受けやすい概念であろう。表現というと、美的な狭い意味に捉えられやすいからだ。だがディルタイはこの概念をもっと広い意味に取っていて、それを三つに分類している(VII,205ff.)。

  • その第一は、概念や、判断や、それよりも大きな思考連関といった論理的・言語的形成物であり、
  • 第二は 行為もしくは活動であり、
  • そして第三は 狭い意味での体験の表現である。より誤解を受けることが少ないのは、生の表出(Lebensäusserung)という呼称であろう。
    「感覚世界に現れる生の表出は、精神的なものの表現にほかならない」(VII,205)

 さて体験と理解を直接的に結ぶ関係に代わるのが、表現を経由する間接的なやり方である。従来の哲学の基礎づけは自己省察に基づいていたが、『精神科学序説』第二巻のための計画において展開されているように、このやりかたは表現を経由することによって根本的に拡充されるに至った。こうして体験、表現、理解という三位一体が、ディルタイが自分の晩年の哲学を集約するときの定式に、いくたびとなく散見される定式となったのである。 [p.52-53]

  • 感情や怒りや苦しみなどが表情や身ぶりを通して肉体の動作のなかに表現され、他人にも理解できるものになっている場合には、体験の表現はすでに最も単純な姿で現れている[上述「第二」]
  • しかし体験の表現が豊かに開花するのは、それがある作品となって、つまり芸術作品のような純粋な姿となって、永続的な形態を帯びている場合である[上述「第三」]

 体験の表現の大きな働きは、これまでには隠されていた心的生の無意識の底層が、この表現の中に認められるという点にある。

「つまり表現のなかには、どんな内省(Introspektion)も与えてくれないような多くの心的連関が含まれている」(VII,206,vgl. VII,329f)

別の箇所にはこう記されている。

到達できない深みの上に、意識的な生の小さなひろがりが島のように姿を現している。しかし表現はこの深みの中から汲み上げる。表現は創造的なのだ。(VII,220)

[p.55]


引用していると陰々滅々としてくるな。

ディルタイ全集〈第2巻〉精神科学序説2

ディルタイ全集〈第2巻〉精神科学序説2


ネタ。体験流の想い出

III ディルタイフッサールに対する関係 - 3 ディルタイの概念用法に見られるフッサールの影響

フッサールの講義を聴いたことのある人は、彼が「体験の流れ」という言葉をいつも手振りで具体的に説明していたことを思い出すであろう。彼は右手を左上方から右下方へと斜めに下ろしながら、その際に、対峙しあっている人差し指と親指とを波形に運動させていた。これこそは途切れること無く続いてゆく体験の流れの印象的なイメージである。 [p.71]

「具体的」という言葉の使い方を間違っていると思った。



ところで『マックス・ウェーバーの科学論―ディルタイからウェーバーへの精神史的考察 (MINERVA人文・社会科学叢書)』って本あったよなぁ...とおぼろげな記憶を辿りつつ検索....

三宅雄彦「政治的体験の概念と精神科学的方法(二)」

続き。

  • ニ スメント憲法学説の全体構造
    • 1 いわゆる精神科学的方法
    • 2 いわゆる精神科学的方向
    • 3 政治的体験と国家思考
    • 4 小括
三宅雄彦「政治的体験の概念と精神科学的方法(2)」

なんというスラップスティック(2節)。というかロールプレイング・ゲーム
法学界の「哲学の出店」に陣取った法学者たちが、「哲学的立場」にもとづく代理戦争=大乱闘をしているよ。おもしろすぎる。



今回やること

(改行勝手にいれました)

[...] 次には、この生そのものの探求という観点が、スメント憲法学説において、如何なる形で、編成され構成されているかを検討しなければならない。
 スメント理論における、生の価値、生の力、生の法則、生の権力という観点を、スメント憲法学説においてヨリ評細に検討しヨリ精密に吟味する手掛かりとしては、差し当たっては次の三つがある。つまり、

  • 一つめが、スメントの主著と目される『憲法憲法法』における「精神科学的方法」という方法であり、
  • 二つめが、スメントの方法と同種と目される同時代の他の「精神科学的方向」という潮流であり、
  • 三つめが、スメントが国家理論史において展開する「政治的体験と国家思考」という観点である。[p.678]
訳語のお約束
  • 精神科学的方法 : geisteswissenschaftliche Methode
  • 精神科学的方向 : geisteswissenschaftliche Richtung
    • 精神科学的転換 : geisteswissenschaftliche Wende
  • 政治体験と国家思考 : politisches Erlebnis und Staatsdenken
今回の登場人物
  • オットー・フォン・ギールケ(1841 - 1921)
    • アドルフ・フォン・ハルナック(1851 - 1930)
    • ラインホールト・ゼーベルク(1859 - 1935 )
    • エルンスト・トレルチ(1865 - 1923)
  • エーリッヒ・カウフマン(1880 - 1972):【形而上学】(第二批判──実践理性 - 物自体──の線でひとつ♪)
  • ハンス・ケルゼン(1881 - 1973):【特に名前なし】[新カント派的二分法で裁断してやんよ♪]
  • ルドルフ・スメント(1882-1975):[主人公]
  • ゲアハルト・ライプホルツ(1901 - 1982):【現象学的法学】(形相的還元しちゃうよ♪)
  • ギュンター・ホルシュタイン( - ):【法理念主義】(理念史的方法でね♪)

小活

「スメント本人の言ってることだけじゃ、「精神科学的方法」なるものがなんなのか、よくわからんね」(大意)

 結局のところ、スメント理論における、生の価値、生の力、生の法則、生の権力という観点を、スメント憲法学説においてヨリ詳細に検討しヨリ精密に吟味する手掛かりとして、三つを [...] それぞれ検討したのではあるが、

    • 一つめの論点については、スメント自身による「精神科学的方法」の論述が不明確なままにとどまること、
    • 二つめの論点については、スメント理論が「精神科学的方向」の論者により徹底的に拒否されていたこと、
    • 三つめの論点については、「政治的体験と国家思考」の視座は国家理論史で展開されスメント独自の国家理論としては未完成であったこと、

こうしたことから、この三つの手掛かりはどれも、単独では、スメント理論解明には不十分であると判定されるのである。[p.713]

次回予告

ディルタイの議論を確認してからスメントに戻ってくるしかないねこりゃ」(大意)

 しかしながら、そうはいっても、これら三つの手掛かりは、単独ではスメント理論解明に不十分であるとしても、これらを相互に密接に連関させ相互に親密に結合すれば、実は、ディルタイ哲学によるスメント理論の基礎づけ という新しい視点が湧き起こってくる。つまり、

  • 一つめの「精神科学的方法」の論点についていえば、スメントが独自の方法論的基礎を探索していた当時、哲学界で精神科学の方法として影響力をもっていたのが、ディルタイの「精神諸科学の基礎据え [Grundlegung der Geisteswissenschaften]」、即ち「歴史的理性批判 [Kritik der historischen Vernunft]」の立場だったのであり、
  • 二つめの「精神科学的方向」の論点についていえば、特にその中のホルシュタインの「法理念主義」の立場の基礎となっていたのが、ディルタイの「哲学史的諸作業」だったのであり、
  • 三つめの「政治的体験と国家思考」の論点についていえば、スメントによりこの政治的体験と国家思考の関係とパラレルの位置にあるとされたのが、ディルタイの「体験と詩作」だったのである。[p.714]


ディルタイ哲学によるスメント理論の基礎づけ!!!


なんだか「ザルの代わりに底の抜けた桶を使ってみよう!」と言われてるように聴こえますが。さてどうなりますやら。次回をお楽しみに!!




本日の特筆事項