いただきもの:石井「言語をいかに問うべきか」「境界の言葉」

 本稿の目的は、初期エスノメソドロジーの核心である その言語に対する考え方、取り組み方を 可能な限り平易な形で紹介し、これによってエスノメソドロジーをその一部とするより広大な社会学的研究領域、すなわち 言語をその使用に即して、実践として、方法として問うという研究領域の存在を示すことにある。本稿は以下のような議論を行う。すなわち、

  1. まず現行社会学の懐疑的態度を対照しつつエスノメソドロジーの非懐疑的態度を示す(1節)。
  2. ついで、この非懐疑的態度がいかなる問題といかなる分析をもたらすのかを具体的に示すために簡単なデモンストレーションを行い(2節)、
  3. これを総括する形でエスノメソドロジーにおける言語に対する考え方、取り組み方を提示する(3節)。
  4. 最後に、本稿は、このエスノメソドロジーが示す言語に対する考え方、取り組み方が、例えばフーコーのそれと通底しているということ、両者を架橋しつつ言語を問題化してゆくことが「社会生活に関する科学」の構築のためには重要な意味を持つことを示唆する(4節)。

こちら↑は 2006年にやった この↓シンポの報告を論文化したもの:


こちら↓は『概念分析の社会学』第7章詳細目次のスピンオフ論文:

要約

本稿の目的は、戦前日本の優生学を牽引した人物としてよく知られている永井潜が語った言説の秩序の解明に向けた導入を行うことにある。
 永井の語った言説に関しては近年多くの優生学研究者によって解明が進んでおり、とりわけそこにおいて「何が語られたのか」という問題に関しては多くのことが明らかになっている。しかし、私見では、まだ永井の多くの重要な言説が「何が方アッレ多野か」という問題の水準において未解明のままであり、さらにそれらが「いかに語られたのか」という(まさに言説研究の中心をなす)問題に関しては ほぼ完全に未解明と言ってもよい状態が続いている。本稿は、こうした欠落を ほんのわずかではあるが埋め、優生学の言説研究への導入を行うべく、永井の数或るテクストの中で、永井が1908(明治41)年に出版した『医学と哲学』というテクストを集中的に考察する。このテクストは永井が著した最初のテクストであり、また永井がその結論を生涯にわたって執拗に反復し続けたテクストでありながら、永井における優生学の展開に対するその意義はおろか、断片的な内容さえほとんど紹介されていない。永井の優生学言説の解明に取り組むには、このテクストを何よりもまず読み解いておかねばならない。
 本稿は、まず永井の『医学と哲学』というテクストの内容を紹介し、次いでこのテクストが永井の言説秩序において持った意義を素描的にではあるが明らかにし、最後に永井の言説秩序の本格的解明に向けて考察すべき問題を提示する。

本日の夕餉

今日は晴れていたので買い物に行きました。
ドイツから帰ってきた知人にソーセージをいただいたので、本日の夕食はこれ:


どうせなら「ドイツ風」にすればよかったかな。

新聞広告

本日のアチャヒ新聞一面(サンヤツ広告)に『概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』が出ているとのタレコミがありました。
これから確認しに(どこかに)行ってきます。


■タレコミ2


ところで、いっしょに掲載されてるこの本がちょっと気になる...

ナショナリズムの政治学―規範理論への誘い

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