西菜穂子(2004)「コミュニケーション・メディアとしての権力に向けて」

ネットで拾った論文を読む夕べ。

  • 西菜穂子(2004)
    「コミュニケーション・メディアとしての権力に向けて:
    初期ルーマンの古典的権力理論批判」
    in 『社会思想史研究』28
    http://t.co/zfGMAKwi


小著『権力』(1975)の前に書かれた 次の論文をとりあげて、古典的な権力論に対するルーマンの批判の要点と含意をまとめたもの。

    • Niklas Luhmann,
      "Klassische Theorie der Macht - Kritik ihrer Prämissen.
      in Zeitschrift für Politik, 16, Heft 2, München, 1969


予想外なことに、ルーマニ屋界隈には珍しいタイプの、ふつうに手堅くまともな論文であった。

ルーマン研究界隈だと、「まともな研究論文である」というだけですでにもう希少性が高くて かなりお得感があるので、「よい研究である」かどうかとか もうほとんど気にしてない けっこう簡単に幸せな気分になれてよい

単著のほうで提出されている「象徴的に一般化したコミュニケーション・メディアとしての権力」についての議論が、権力に関するいかなる諸主張に対峙したものであったのかが よくわかる。

  • はじめに
  • 一 権力の所有──「物質」・「財」としての権力
  • 二 権力(Macht)と物理的暴力(Physische Gewalt)の分離について
    • 1 コンフリクト理論における権力と物理的暴力の性質
    • 2 コンフリクト理論において物理的暴力が持つ戦略的意味
  • 三 古典的権力における「閉じたシステム」の権力
  • 四 原因としての権力──権力と支配の因果関係

たとえばルーマンが、古典的な権力理論における

  • 《権力 - 所有 - 闘争(コンフリクト) - 契約 - 〜》

といった概念連関の分析を(することによって古典理論を批判)していることの指摘*。
あるいはまた、物理的暴力が「兵舎に入れられ」**て一極管理されていくことについては見解が一致しているウェーバールーマンの権力に関する議論が、どこで分かれてくるのか***に関する指摘。
・・・などなど、通常の言語運用能力を持つひとであれば ふつうにルーマンのテクストから読み取れるはずの ふつうに重要な事柄が、テキスト上の根拠を挙げながら、ふつうに指摘されている。

* この概念連関は、コンフリクト理論なるものの成立条件を(したがってまた、批判すべきポイントと それが批判されるべき理由をも)示している。またたとえば「経済 - 政治 - 法」の間の構造的カップリングの分析の前提ともなっている。
なので、それを理解していない人は、当然たとえば、『社会の経済』や『社会の法』といった著作において なぜことさらに「所有(権)」の概念変化が追いかけられるのか、理解できないだろう(し、そもそも「構造的カップリングの分析」ということでルーマンがどういう作業をしようとしているのかも、理解することはできないだろう)。
** cf. ノルベルト・エリアス『文明化の過程』(ISBN:4588099051ISBN:4588099272)。
*** 権力について因果論的表象を採るか否か。


この方、その後、現在ではどのような研究をしておられるのでしょうか。>識者

博士課程では一橋にいらしたようです:http://t.co/ilMFQ14p

涜書:井頭『多元論的自然主義の可能性』

合評会があると聞いて「苦手科目克服」的な意味で再訪。http://socinfo.g.hatena.ne.jp/contractio/20120107
自然主義」って、基本的には、哲学研究者以外のひとにとっては無縁な規定であるように思われるのだが、にもかかわらずそれが経験科学にとっても意味を持つ可能性があるとしたら どのような時か・いかなる理由によるのか、ということについてちょっとだけ考えみたり。

多元論的自然主義の可能性?哲学と科学の連続性をどうとらえるか

多元論的自然主義の可能性?哲学と科学の連続性をどうとらえるか