■〈実践/技術〉
p.383
[ルーマンが 〈実践/技術〉という原則的区別をもはや許容しない行為概念を用いていることを ハバーマスは批判するのだが、]実践と技術の相違を私が正しく理解しているとすれば、その要点は、
- その行為が一種の自己成就において実現されるかどうか、あるいは
- その行為が計画にしたがってある制作物を産出するかどうか
の問題にある。すなわち現代風に表現すれば、
- 実践的行為者は 他の諸主体との相互行為における主体として自己自身を形成する。
- 技術的行為者は「自分の意志の産物をこの産物の制作のために3」用意する。
ところで現代の社会においては──たとえば 都市と家を土台にした── 倫理的生活様式と制作的生活様式との分離 という[古代ギリシャ的な]現実的基礎が欠けている。それに対応して、この[〈実践/技術〉という]区別には根拠がなくなり、近代においてきわめてこみいった意味の変転を経験する。
3) Hermann Lübbe
■〈体験/行為〉
p.393
体験と行為の区別は、とりわけコミュニケーションメディアの理論の基礎として意義をもつ。
体験と行為の区別は、意味構成の問題において体験の優位から出発することを排除しない。
- コミュニケーションメディアは縮減された複雑性の伝達を可能にし、また
- 自己ないし他者の側で体験ないし行為が想定されるかどうかに応じて、このメディアは分化される。
体験の優位は次の点にその根拠をもつ。
- あるシステム準拠を選択すると[参照されている特定のシステムにおいては、] そのつどわずかな選択のはたらきのみが行為として帰属されうるにすぎず、世界はその他の点ではすでに規定されたものとして体験されるということである。
- 縮減の負担はしたがって重点的に──決して普遍的にというわけではないけれども──体験におかれる。それとともに、
- 意味構成もまた基本的には体験をへて進展するのでなければならないということである。
つまり帰属が問題である場合には、体験として処理されなければならない。
それ故にこうした概念形成は、ハバーマスが「有意味的世界の構成はダイアローグのなかで生じ、したがって基礎づけうる行為をとうして生じる(またそのさい複雑性の問題は存しない)」といった考えに固執しようとする場合には、受け入れがたいものになるのではないだろうか。