IV 「法史と社会システム論」

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河上倫逸によるインタビュー。
八で自分の所有論について振り返っている。七も所有の話で、量としてはこちらのほうが多く、八はそのまとめ。

七 法理論におけるルーマン批判について

クリストフ・ヴェールシッヒ(1976)「サヴィニーとルーマンにおける所有権と法形態」について。
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 本当に問題なのは、所有権というものを 貨幣経済の表現として本当に理解し得るかどうかということなのでして、これについての私の答えは否です。
 この論文の著者は、彼の「占有」についての解釈に基づいて私が「占有」につき誤った解釈をしていると主張しようとしています。しかしそれは誤解です。当然のことながら、すべての所有権は今日では売買の対象になりうると私も考えています。しかし第一に、社会的諸関係への貨幣経済の介入は、中世後期の段階では、今日よりも遥かに広汎なものでした。当時においては、国家権力も、官職も、否、それどころか魂の救済──つまり宗教的安定性──すらも買い入れることができました。現代に比べて、中世後期には、貨幣により購入できるものは遥かに多かったのです。… しかし経済の分化は、まさに、すべてのものが売買できるものではなく、宗教そのものや、政治そのものが堕落せず、学問的研究の成果も売買できないということが前提となっているのです。… 重要な点は、マルクスとも、この論文の著者とも異なって、私は歴史の傾向を全ての社会的諸関係に対する貨幣経済の増大化しつつある介入としては把握していないということです。… 経済の成功は売買可能性の条件の制限に立脚しているのです。もしそうでなければ、経済それ自体が道徳的・政治的に堕落してしまうことでしょう。…
 ここでもう一つ、法について申しますと、所有権というものは貨幣価値へとは還元しきれるものではないのです。…
 さて、マルクスとその後継者、例えばアドルノにおいても──アドルノは、マルクスの『資本論』のうち「商品物神性」の章しか読まなかったと私は思います──、社会批判は社会に対する貨幣経済の圧倒的優位性の確立に注目しておりました。しかし、私はそれは誤っていると思います。所有とは 他の関心をも満足させるものなのです。私にとって所有とは、経済の一次コード化を意味しています。それは何よりもまず、所有/非所有というコードなのです。このコードは、たとえ所有が売却しえない領域に存在していても保証されているのです。そして、そのような保証が存在して初めて、貨幣は所有となり得るのです。かくしてこそ、私は私の貨幣の所有権者なのであり、かつまた、それが売却し得る限りにおいて、私はある物の所有権者なのです。
 ちなみに、バルトールス以来、つまり14世紀以来、ヨーロッパの論争の中で、所有というものは二分化されてきました。

    • 一方には、支配 dominium, Herschaft、つまり意のままに処分しうる(売却も一つの可能性ではあるが、唯一の可能性ではない)ということがあり、
    • 他方には、利用 dispositio, Möglichkeit できるということがありました。

この二つの術語は競合しつつも、バルトールス以来、法律文献の中で用いられ続けて来ました。このことは、dispositio という術語が現れてきても、dominium という術語が消滅してしまわなかったことからも明らかなのです。したがって、ローマ法的観点からすれば、所有ということの全内容を法律家たちは売却可能性 Dispositiongewalt へと還元し尽してしまうことに成功しなかったことになります。usus と abusus、所有権の行使の制限、法律的制限は、例えばそういったことを説明しているのです。

ある土地に物を建てる場合、高さが制限されるとします。このことは土地の価値と関係があるにも関わらず、土地の売却可能性とは別のことなのです。

 以上のことからして、私は自覚的に、

  • 所有と非所有という経済コード化の第一段階と、[所有による経済の一次コード化]
  • 売却可能性による所有の利用可能性の大幅な増大 という第二段階 [貨幣による所有の二次コード化]

を、はっきりと区別しております。そして、そうした増大によって、現実に所有を貨幣を通じて全ての投資へと変換できることになるのです。それは大きな変化をもたらしてしまうことでしょう。貨幣経済を決して過小評価してはなりません。… それにもかかわらず、私としては 私の見解を維持したいと思います。すなわち、所有ないし所持とか、非所有ないし非所持とか、支払いないし非支払いといったことは、全く別の二分コードなのでして、法というものは、いかなる場合においても、所有それ自体とは同一のものとは言えないのだ、と。

八 所有権論

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 概観してみますと、私はずっと以前から、所有概念を法システムと経済システムとの間の連結点として用いてきました。そして法システムが所有という観念の一般化を通じて、経済的発展に対して、すなわち貨幣に対して empfindlich になってきたと思います。それはずっと以前からの私の考えだったのですが、詳しい研究は、実は後になってからようやく始めたのです。今、結構大きな草稿を書き上げたところでして、神戸で開かれた「IVR世界大会」でした講演は、その草稿の一部でしかないのですが、その中で、私は16世紀から18世紀後半までのそれぞれの所有権理論を取り扱いました。その中で、私は16世紀から18世紀後半までのそれぞれの所有権理論を取り扱いました。例えばグロチウスやその前後の法律家たちのそれです。

  • 所有権の歴史的研究について、もう少し詳しくお話し願えませんか。

 では、ここでは脱パラドックス化の観点からお話をしたいと思いますが、そして私の関心は、最初は、神が世界をすべて平等な存在として創造した──つまり、人間を平等な存在として創造し、事物-世界を人間個々人ではなく、全体としての人間の支配にゆだねたと考えられ、共有関係が支配的な時代に、どのようにして、どの程度まで所有権理論が生み出されたのかという点にあったのです。そのような、人間が原罪を負っていない段階では、合法/不法 といった区別が未だ存在していなかったにもかかわらず、その後、そのような区別の理論が生じてきたとすれば、その原因は一体どこにあったのでしょうか。18世紀半ばまでは 次のような理論が支配的でした。すなわち、エデンの園における罪のない状態が 法/不法 という区別によって取って代わられた。そして面白いことに、理論の転換、つまり、市民的観念の貫徹とともに、そのような考え方の転換が生じてきたのです。土地の所有──当時、所有は常に土地所有でした──から、突然に、労働や貨幣の所有へと転換したのです。

社会構造とゼマンティク 3 (叢書・ウニベルシタス)

社会構造とゼマンティク 3 (叢書・ウニベルシタス)

  • 第1章 はじめに不法なかりき
  • 第2章 伝統的支配から近代的政治への移行における国家と国家理性
  • 第3章 個人・個性・個人主義
  • 第4章 宗教の分出
  • 第5章 道徳の反省理論としての倫理学