- [01-02] 作動の反復可能性がシステムを統一体として実現する。しかし、この統一性をそのまま、システムのうちで・反省によって 把握することはできない。
- 法システムの内部で生じうるのは、
- [03] ローカルな言及: 〈妥当している法〉として働いている特定のテクストを引き合いに出すこと。
- [05-06] 〈合法/不法〉のコード+〈コード化/プログラム化〉の区別を用いること。(→実定法へ) ──といったことである。
- すると、実定法が成立したあとでは、「正義」は倫理的な問題に過ぎないように見える──したがって、残された仕事は「法のなかで倫理が占める場所」を探す、とか、全体社会すべてに関わる原理だと再解釈といったことであるように思われる──かもしれない。しかしそうではない。
- [07] 法が道徳を参照することは、法が道徳によって基礎づけられることを意味しない。それは、法が専門家の知見を利用するのと同じレベルにある[だからといって、法が科学によって基礎づけられるべきだと考える者はいないだろう]。
- [08] 道徳的-倫理的議論とは別様に 正義を捉えるために、〈妥当/正義〉の区別を出発点にとろう:
妥当 | 作動の接続のレベル | システム内で流通する、作動を結びつける──ことによってシステムの統一性を実現する──シンボル。[第二章] |
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正義 | 自己観察〜自己制御のレベル | プログラムを比較する──ことによって、システムの統一性を投企する──(理論的ではなく規範的な)プログラム。
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- [09] 後続の議論のための準備的なまとめ: 消極的規定;
正義というとき問われているのは自己言及であるが、ただしそれは、
- 作動としてではなく、観察としてである。また、
- コードのレベルではなく、プログラムのレベルにおいてである。さらに、
- 理論のかたちでではなく、(えてして違背を生みがちな)規範のかたちでである。
これらすべてが意味するのは、
- 不正義の(…)法システムが存在しうるということである。ただし、
- システムの作動レベルでのオートポイエーシスも、また普遍であらざるをえないコードも、〈正義〉ではありえないのである、と。
- ★準拠問題
われわれは、正義に関して生じているのは、自己言及的な規範が自己と対面することであると考える。この自己対面は、いかにして特定化されうるのだろうか。あるいはこういってもいい。システムはいかにして自己の統一性を、規範的プログラムのなかで実現することができるのだろうか。しかもそのプログラムは、システムの内部で適用されうると同時に、あらゆるものへも適用できなければならないのである。