序文

引用1

 『社会の芸術』というタイトルが付された本書は、全体社会の理論を彫琢するために計画された一連の著作の一部である。[vi]

比較することが説得力を持つのは、比較される領域が〔比較点以外の〕その他のあらゆる点で異なっているからこそである。だからこそ比較可能なものが際立つのだし、それらのものに特別な意義が帰せられることにもなる。しかしこの点を示すためには、個々の機能システムを分析していく必要がある。[vi]

引用2

本書は芸術にとって役に立つ理論を扱うわけではない。… その理論を正しく理解し適用すれば、芸術システムが現在抱いている将来への憂慮が晴らされるなどというわけにはいかないのである。これは、全体社会の機能分化に関する一般理論から導かれてくる帰結でもある。ある機能システムをほかの機能システムが直接制御することは不可能である。しかし同時にそこでは、相互に刺激を与える可能性が増大しもするのである。
 したがって学もまた芸術によって刺激されるはずだということになる。当然本書での社会学理論も同様である。… 肝心なのはあくまで次のような仮定である。普遍性を求める全体社会理論は、芸術が存在することを無視できないのである、と。[x]

引用3

 本書でこの企図を具体的に実行するにあたっては、特に次の点に注意しておかねばならない。芸術システムのシステムとしての性格を 今現に存している事態だけから読み取ったり、歴史的分析を視野の外に置いたりすることは、不可能とまではいわないにしても困難であることが明らかになっている(経済システムや学システム、法システムの場合ならそれは可能なのだろうが)。

  • 確かに美学的な、芸術に定位する企図は、事実へと定位する精神科学から常に自身を区別してきた。
    • 16世紀の詩と歴史(poesia / historia)に関する論争は《美の仮象》を際立たせることを狙ったものであったが、これを一例として挙げることができる。
    • また20世紀の解釈学も同様である。解釈学は学問的に利用可能な記録を、個々の芸術作品の表現と意義を理解することから区別しようとしているのである。
  • しかし社会学的考察の中では、この区別は維持しがたくなる。
    • そもそも芸術自身が歴史に定位すれば、この区別は崩壊してしまうだろう。ルネッサンスにおいてすでにそうであった。芸術そのものが、単なる反復を許容しないからである(…)。
    • そして全体社会の理論にとっても結局のところ、歴史を継続的に再現実化していくこととは無関係に歴史が存在するわけではないのである。[x]

引用4

 したがって、ここで提示されるテクストにおいては、近代芸術の体系を構造主義的に記述することも、芸術システムの分出の歴史を進化論的に、段階に区分されたかたちで示すことも放棄しなければならない。読者は、この二つのパースペクティヴが混在しているのに気づかれるだろう。それゆえに繰り返しを避けることはできなかった。本書の章立ては、事柄に即したテーマのかたちで構想されている。歴史的回顧に関しては、必要に応じて行うことにしよう。特に、芸術システムの分出に関する章〔第四章〕および芸術システムの自己記述に関する章〔第七章〕においてである。したがって、重要なものからあまり重要でないものへ、旧いものから近年のものへといった明確な単線的秩序は期待しないでいただきたい。しかし逆にその分だけ、同一の概念的ないし歴史的な思考財が、さまざまな文脈において繰り返し登場するのを見て取ることを通して、読者の理解が深まるだろうと期待することはできる。かなり詳細な索引を付しておいたので、前後にとらわれずに読むこともできるはずである。[ix-xi]