09 機能システムの反省理論

研究の目的方針について述べた箇所。p. 1272-1273

旧ヨーロッパのゼマンティクが──それとともに自然=本性に、理性に、倫理に向けられた期待が──終焉を迎える(…)日時を特定することなどできない。その腐食現象がきわめて可視的になっているにしても、である。同様に、ゼマンティクが伝統的なものから近代的な(…)ものへとブレークスルーすることが、18世紀初頭のわずか数十年において生じたと想定するのも、疑わしくなる。
 社会状態の直接的記述に関しても、また歴史に関する了解についても、同じことが言える。[…] 近代社会は、全体社会の中で全体社会を代表=表出することなしにやっていかねばならない。そして近代社会はそのための、旧ヨーロッパのゼマンティクが有していた独特の閉鎖性と説得力に匹敵しうるであろうようなゼマンティク上の形式を、まだ見いだせていないのである。
 それゆえに 近代社会への移行において生じた連続性の断絶を発見するためには、語と概念の歴史という表層構造だけを頼りにするわけにはいかない。そこにおける素材が、われわれの立証活動のためのデータベースを提供してくれるにしても、である。われわれはより社会学的なアプローチを採用しなければならない。そしてこの目的のための出発点として、本書第四章で論じてきた、分化形式の転換というテーゼを選ぶことにしよう。近代社会は、機能分化の優越という点で際立っている。これが正しいとすれば 旧ヨーロッパの伝統との関係における断絶点は

活版印刷術という新たなテクノロジーだけに帰するわけにはいかない以上、

次の点に求められなければならなくなるだろう。すなわち、分出を推し進めたシステムの自律性と固有の動態とが目視可能となり解釈が要求されるようになったその〔時〕点に、である。

「「断絶」が言えるのだとしたら、それはシステム分化(の形式の転換)としてだ」という限りの主張であれば賛成できるが、それ以上のことを言ってしまっているように思われる。

「目視可能となり解釈が要求されるようになった」という表現は、研究の目標を──「作動の様式」ではなく──「観察=記述」の水準に定めているように読める。なぜそうするのだろうか。