田中耕一「再帰性の神話」

「ひとびとの構築」を「社会学者が構築」することを、「再帰的(構築)」とは呼ばないと思うのだがあなたどう思うか (だって、なにが/どこに「再帰」してるの?*1)。 ‥‥ 「二次の構築」(w とかとなら呼べるけど。というかそれなら(?)「構築」とか呼ばずに「(二次の)観察」で押せばいい。 もちろん、そう言い換えたからといって ほとんど利得はないが、それでも/少なくとも「二次の観察」のすべてが再帰的な観察であるわけではない(というのは自明だ)、ということに気づくことはできる; そして同様に、「二次の構築」(などというものがあるとしても、そ)のすべてが再帰的な構築であるわけではないに違いない。

そもそも、こんなややこしい話をしなくとも:

  • 「あなたの言っていること、よくわからないんですが」とか
  • 「僕らにこの部屋から出て行って欲しいんだね」とか

と問いかけてみたり(以下略)すれば、コミュニケーションは容易*2に「再帰的」になる──つまり、(当該)コミュニケーションについてのコミュニケーションになる*3
 観察者が(当事者も、だが)、こうした会話を見て「再帰性」を云々できるのは、それが「どこから/どこへの言及なのか」を指示できる*4からである。そして/ところが、「ひとびとの構築」を「社会学者が構築」する」のほうは、そのような宛先がない*5。追加で指定してやるのでなければ。


逆にいうと、「ひとびとの構築」を「社会学者が構築」することが「再帰性」にかかわるようになるのは、加えて、たとえば

  • 「ひとびとの構築」を「社会学者が構築」するとはどのようなことか、を論じてみたり、
    あるいはまたたとえば、
  • 社会学者は ひとびとである[=社会学者もひとである(w]」*6 という命題をくっつけて論じてみたり
    する場合ではないか、と*7



あと、著者さんは、そもそも「メタレベル」というを、大げさに(「非常識に」ではないにしても)とりすぎたうえで──その藁の犬を──叩いているのではないかという疑問もわく。が、またそれは暇があれば。

*1:否。なにもどこにも。

*2:この二つの発言が、どちらも(軋轢を生じかねないという意味で)ちょっとキケンなものであることに注目すると、これは「機能分化論」へのよい手引きとなる論点になっているのだが、いまそれを一緒には論じられない。

*3:そして(当該)コミュニケーションについてのコミュニケーションもまた、コミュニケーションである。──当然のことだが。

*4:このことを、文中では「当該」という字句で示してみた。

*5:つまりこの場合「当該」といえるのがなに(どれ)であるのかがわからない、ということ

*6:あるいは──これはもっと「強力な」命題だが(w──「ひとびとは 社会学者である[=ひとびとも【あるいみ】社会学者である]」でも可。 わぁ。ホモ・ソシオロジクスだYO!

*7:ちなみに、この両者では、それぞれ「再帰するもの」として指示されているプロセスが異なっていることに注意せよ。これらが「再帰的」と形容される際には、前者では学的コミュニケーションへの内在が、後者では Gesellshaft* への内在が、それぞれ狙われている。もちろん学的コミュニケーションも Gesellschaft に内在しているわけだが、すべてのコミュニケーションが学的であるわけではない(のは自明)。
* こう言えるのは、この概念を意味あるものだと認めた場合だけであり、そしてそう認めてよいのかどうか自体に、すでに議論の余地があるわけだが。