「相互作用」と「合意」

帰宅車中で、印刷しておいた桑原司さんの論文を読む。 id:contractio:20040113#p7

ここが↓シェフの議論を敷衍して紹介しているくだり。 なのだが、この議論、なんかヘンじゃない?

 花子さんと次郎君をそれぞれ別々の部屋に呼び、2人がコミュニケーションを取ることができない状態にした上で、2人に個別に次のような質問をしたとする。
 「報道被害は犯罪行為である」(問X)
 この問Xに対して、花子さんと次郎君の双方が同じ回答を提示した場合(例えば「そう思う」と答えた場合)、この状態を指してシェフは、「同意」(Agreement)と呼んでいる。もし両者の意見が食い違った場合には、その状態は「不同意」(Disagreement)となる。次に今度は、双方に「相手が問Xに対してどのような回答をすると思いますか」と尋ねたとする。そこで仮に次郎君が、「花子さんは問Xに対して『そう思う』と答えると思う」と答え、事実、花子さんが問Xに対して「そう思う」と答えていた場合、この次郎君の状態を指してシェフは、「理解」(Understanding)と呼んでいる。逆に、花子さんが実際には「そうは思わない」と答えた場合、その状態は「誤解」(Misunderstanding)となる。最後に、今度は、次のような質問を次郎君にしたとする。「問Xに対して次郎君がどのように答えると花子さんは考えていると思いますか?」と。ここで仮に次郎君が、「自分が問Xに対して『そう思う』と答えると花子さんは思っているはずだ」と答え、事実、花子さんもまたそう思っていた場合、すなわち、次郎君の問Xに対する回答に関する花子さんの理解の如何を次郎君が正確に判断していた場合、この次郎君の状態を指してシェフは、「認識」(Realization)と呼んでいる。逆に次郎君が判断し損ねた場合、その状態は「思い違い」(Failing to realize)となる。
 ここで合計6つの変数が提示されたことになる。すなわち、それぞれの頭文字を取って、A(「同意」)、D(「不同意」)、U(「理解」)、M(「誤解」)、R(「認識」)、F(「思い違い」)がそれにあたる。ここで仮に、行為者を「2人」に限定するならば、こうした変数をすべて掛け合わせると、論理上、16通りの状態を提示することができる18)。そのなかより、いくつか重要な「状態」を取り上げて説明することにしよう。例えば、「次郎=RU−A−UR=花子」とは、2人が問Xについて「同意」しており、かつ、そのことについて双方ともに「理解」しており、さらに双方ともに「認識」している状態を指す。先に提示された「相互主観的な2次の合意」が2人の間に成立している状態を意味する。また、FU−A−UFの状態とは、「相互主観的な1次の合意」を意味する。さらにFM−A−MFとは、2人がともに問Xについて「同意」しているにも関わらず、双方ともに、そのことを「理解」してもいなければ、「認識」してもいない状態を意味する。この状態を指して、「多元的無知」(pluralistic ignorance)という19)。
 以上の議論からも明らかなように、人間間の「合意」という現象は、各種の「度合い」(degree)から構成されるものと捉えられなければならない。すなわち、「合意」とは、すぐれて「多元的」な性格を帯びたものと捉えられなければならないのである20)。

これって、太郎-と-花子相互作用の記述じゃないですよねぇ。彼/女たちを隔絶させた上で 彼/女らに「質問」したりあれこれしている、その質問者と太郎との相互作用および質問者と花子との相互作用の記述かもしれないけれど。 ここで、「誤解」とか「不同意」とか(以下略)と判断しているのは「質問者氏」なわけですが、彼/女がそうできるのは、そもそも 太郎|花子-と-質問者氏とのパースペクティブの不一致に依拠して、だし。
そんなわけで、論文のタイトルは「相互作用」-と-「合意」になってるのですが、書かれているのは(実験的観察者と被験者との)相互作用-と-(実験的観察者の判断である、という風に読めるのでした...。
同じことがこの↓「結論」にも言えて:

 以上、本論では、「相互作用と合意」というテーマのもとに、以下の4つの問題について考察してきた。

  • 1)相互作用を行う自己と他者とは如何なる関係におかれているのか。
  • 2)相互作用を通じて人々はいかにして「相互理解」に達するのか。
  • 3)「相互理解」に達するそのプロセス、および、そこでいう「相互理解」と「合意」の違いについて。
  • 4)そこで形成される「合意」の性格について。

 本論の議論を踏まえるならば、上記の4つの問題に対して次のようなこたえを提示することができる。
[略]
 4)そうした合意は、各種の「度合い」(第1次、第2次、第3次・・・・第n次)から構成されている、という意味で極めて「多元的」な性格を帯びたものであり、その「度合い」が高次なものになるにつれて、それは、より「完全な合意」へと限りなく近づいてゆくものと捉えられる21)。

「より完全だ」とか「まだ不完全だ」とか評価しているのは(そしてそうできるのは)、飽くまで「観察者氏」であって、それもやはりパースペクティブの不一致に依拠して、のことですなぁ。
えーっと... 象徴的相互作用論というのは、こういう「観察者の判断についての(認識論的)記述を以って相互作用の記述のかわりとする理論」のことをいうのかしら? ──それならそれで(ある意味)納得しますが。


桑原さんは

「相互作用と合意」(interaction & consensus)というテーマが、そのパースペクティブ(分析枠組)の如何に関わりなく、社会学にとって、解明されるべきもっとも重要な研究テーマの1つとなってきたことはいうまでもないが、

と書くけれど。

社会学史において、この問いが「いうまでもない」ほど自明なこととして扱われてきた──のかどうか学史に疎い私にはわからないので、それはさておく──としても、

なぜそれが「解明されるべき重要なテーマ」であるのか、そしてなぜこの論文もそれを踏襲するのか(=してよいのか)、その理由は(この論文を読んでみても)わからない。
だって。なにしろ

  • 相互作用を通じて合意に達するのはいかにしてか

と問いを立てている限りで、これは同時に・すでに、

  • 相互作用は合意に先行して・すでに生じている

ということを含意してしまっているわけですよ。したがって/それならば、やはり同時に・すでに、

    • 相互作用のために合意は不要だ←→合意がなくても相互作用は可能だ

という主張もしてしまっていることになるでしょう。
だから/しかし、そうだとしたら、どうして、

  • さらにほかならぬ「合意」について云々するのか

ってのは、なんら自明なことではなくて、やはりそれ自体問題にしうることのはずではないですか。

もちろんここでのもっともベタな問いは次の通り: 上の問いは、「相互作用を通じて不合意に達するのはいかにしてか?」と「同じ」なのものなか?

‥‥と思うのだがあなたどう思うか。


ところでこの議論ってなんかに似てるな〜と思ったら、「せり人のいる-市場=価格調整-モデル」だね。

google:せり人+市場+価格調整+モデルの検索結果上位いくつかを適当に参照せよ。