shifter:番外編(偽伝図のミード)

id:hidex7777:20040117#p6 / id:contractio:20031214#p1
まず、ヤコブソンから引用:


指標index的象徴、特に、人称代名詞は、フンボルトに基づく伝統においては、言語のもっとも基本的・原始的な層に属するものとされているが、そうではない。それはコードとメッセージとが重なり合う複雑な範疇なのである。したがって代名詞は、小児言語では遅く習得され、失語症においては早く失われるものに属する。I(あるいは you)は、異なる主体の間欠的*1な同一機能を示し、その一般的意味を定義するにあたって言語学者でさえ困難に遭遇したといことを観察するならば、自分自身を自分の固有名と同定することを覚えた子どもが、人称代名詞のように、話し手から話し手へ移行しうる*2用語に慣れるのは容易ではないだろうことは明らかである。 子供は、相手から you と呼ばれているときに、自分自身について一人称で話すことには気おくれするかもしれない。子供は、ときどきこれらの呼称を配分しなおそうと試みる。たとえば、子供はこんな風に言って、一人称代名詞を自分だけ占有しようとする:“きみ は自分のことを ぼく と言ってはいけない。ぼく だけが ぼく で、きみ はただ きみ なんだ”。あるいはまた、子供は I か you のどちらかを発信者と受信者の両方に無差別に使い、その結果、この代名詞は対話の当事者のどちらをも名指すことになる*3。最後にまた、子供は I を厳密に自分の固有名のかわりに使い、その結果、自分のまわりの人の名前はすぐに言うけれども、自分自身の名前を言うことは頑固に拒絶するようになる:名前はその幼い所有者にとっては、単に呼格的意味を持つにすぎず、I の主格的機能に対立する。こういった態度は、幼児期の残存物として、後まで残ることがある。[ヤーコブソン「転換子と動詞範疇とロシア語動詞」 in 『一般言語学』、川本茂雄監修訳153-4頁(を俺様的にてきと〜に改変)]


で、id:hidex7777氏の質問はこうでした:

  1. ギデンズの見解は,「ヤーコブソンに依拠している」としたほうがいいのか
  2. 社会学の論文で、注で触れる際に、どの程度まで踏み込んだ記述にしたらよいのか

対する俺様的回答は:

  1. しなくていい(しないほうがいい)
  2. 論文の内容と問題の分解方針による

です。



上記引用文中でヤコブソンが述べているのは、煎じて言えば、

  • 指標詞使用は難しい
    • ←→こどもは、指標詞を使えるようになる以前に、すでに──コミュニケートしているし*4──(少なくとも固有名詞への)アイデンティファイはできている

ということですよね。
これが、id:hidex7777:20040117#p6 で挙げてくれた引用箇所におけるギデンズの主張に関係していることは、

たとえば、ギデンズの“「パースン」であることは,ただ再帰的行為者であることであるだけでなく,自己・他者双方に適用できるようなパースン概念を持つということである。”は、ヤコブソンの“ 子供は、相手から you と呼ばれているときに、‥‥”以下のところに「対応」してるわけで*5
まぁ「直感的に」あきらかですな。で、ここでやるべき作業は、

  1. ギデンズの主張が、指標詞使用に関する発達心理学的知見にのっとっている(=反していない)かどうかの確認
  2. ギデンズの主張が どのような意味でミードの批判になっているのか、の確認

ですよね。論文にとって重要なのはもちろん2のほうで、ここにどのくらいのコストを割くかは、当然のことながら、この論点が id:hidex7777氏の論文の内容にどのくらい関係しているかに依存します。なんか考えて、面白いことを思いついたら、俺にも教えてください(w。
で、1のほうは、文献を調べれば済むはなしです。つまり、上記の点が、発達心理学で承認されているかどうか*6──そして、この論点にレリヴァントな、ほかの知見がないかどうか──を確認すればよい。心理学事典いくつか(ついでに記号学辞典とか見といても損はないですが)と「講座もの」とかいくつかをあたれば、関係する適切な=適当な──できれば、ここ10年以内くらいに発表されたのがいいと思いますけど──文献をみつけられるに違いありません(大学図書館をあてにできる場合、この作業は数時間あれば済むはず)。

どーせ(?)「古典」をあげるなら、その前にヴィゴツキィの名を挙げるべきかもしれませんが。でもここではギデンズ自身が言語のほうに話を振っているので、上記の文献を挙げたあとに、ついでに「またこの点については、[Jakobson:1957] も、指標詞に関する言語学的考察のなかで注意を促している」とかと(w、並べて置いといてもいいかもしれません。このネタはほかにも、メルロ-ポンティとかいろんな人が取り上げていたように思いますが、まぁ、そのテのな文献をたくさん挙げてみても、「もっともらしさ」の調達にはあまり役立たない*7ので....ほどほどにしときましょう。


で、ギデンズの議論ですが、例によって趣旨不明ですねぇ。これ、ミードの批判になってるんでしょうか。段落の最後で、

転換する文脈において「I」を使用する能力は,あらゆる既知の文化の特性characteristicだが,個人性personhoodの再帰的概念の 最も基本的な特徴featureである。
とかいってますが、それでなんで「同意できない」ということばが出てくるのか、俺にはちょっとわからんです。
つまるところこれは、ギデンズが、personhood と self-identity とを、どう区別して使っているかに依存するので、ちょっとここ読んだだけではわからんですね。


ま、とりあえず、こんなところで。

*1:なんだこれ?

*2:もちろん、これが「転換」詞と呼ばれる理由だ、ってのはよいですな? 念のため。

*3:ちなみに大阪では、コミュニケーションの受信者を指示するために「自分」という語が使われますが。

*4:あたりまえですが(w

*5:これ、ピアジェの謂う「脱中心化」の話ですな。

*6:「直感的にいって」承認されていそうに思われますけど。

*7:と俺は思うけど。