番外

  • Niklas Luhmann (2000) "Familiarity, Confidence, Trust: Problems and Alternatives" [pdf]

のhidexさん訳:http://www3.to/pli/luhmann_fct.htm で気になったところについて、いくつかメモを:

あんまり自信ないですけど。


[III-02]
the difference between social actors as Sources and victims of disappointing behaviour is controlled by politics and law.
「<失望させる行動の源泉である社会的行為者>と<失望させる行動の犠牲者である社会的行為者>の間の差異は、政治と法によって制御される」──と読めないかしら。ところで、なんで「Sources」は大文字になってるんでしょう?

[IV-02]
Differences in familiar milieux may now explain cultural and national differentiation, or the diverging results of socialization;
→not "natural".(まぁ、なにいってんだかはわかりませんが(w。)
[IV-04] これはまったく自信がないですが;

The inclusion of persons in important social systems is thus neither a matter of nature, nor a matter of trusting, risk-taking, or rational decision.
「諸個人の社会諸システムへの包摂は、自然[=本性?]の問題でも信頼(つまりリスク・テイクや合理的決定)の問題でもない。」──かなぁ? 「or」の前の「,」が微妙ですねぇ。よくわからんです。

[IV-01]
In the first instance these developments must have led to increasing social tension. Already the sophisticated art of rhetoric, with its emphasis on remembering the places, inventing (and that meant: finding) ideas, and amplifying effects, was a reaction to this new situation.
ここに出てくる「place」というのは、(koinoi) topoi / loci (commune) / (common)place ──アリストテレスの「著作」名(『トピカ』)にもなっている、そしていまでも「トピック」といういい方で残っているもの──のことだと思われます。‥‥‥「だからなに?」と──私に──言われても困りますが、ともかくも、「with its emphasis on 〜, and amplifying effects,」の部分は、前の「修辞術」のほうにかかって

「commonplace=トポスを覚えること、〜〜、などなどを強調した 洗練された修辞術は、[エクリチュール(゜∀゜)!の登場によって社会的緊張が増大した、という]新しい状況へのリアクションだったのだ」

云々、というふうな意味になるのかな、と。(google:commonplace+トピカ|トポス→一件しかヒットしませんが ‥‥‥とよくみたら、森洋介さんの「書庫」ではありませんか。)