google:positif+foucaultで検索してみたら、蓮實大先生の中国講演(2001年)がヒット。


 〔‥〕 ここで注目すべきは、「近代」という言葉そのものに深い意味はないとさえ断言されていることです。
 その理由はごく簡単なものです。「近代」という言葉は、そしてその概念は、まさに「われわれの知にとっての実定的な土台として役立っているもの*」、あるいは「それにもとづいてわれわれが思考しているところの秩序」の中で生まれたものにほかならず、同時に、それは、「われわれの知にとっての実定的な土台として役立っているもの」、「それにもとづいてわれわれが思考しているところの秩序」そのでもあるからにほかなりません。つまり、「近代」とは、それ自体が「近代的」な言葉、「近代的」な概念なのであり、それが「いまなおわれわれにとって同時代であるところのもの」だという自覚を超えて、その言葉の意味なり概念なりを明らかにすることは不可能なものなのです。そうした文脈にあって、人は、「近代」とは「近代的」なものだという思考の循環的な回路からそとへ踏み出すことはできません。この不可能と無知こそ、われわれにとっての真の問題であるはずです。
 フーコー的な「考古学」にとっては、「近代」がそうであるように、「ポストモダン」という問題体系も成立しません。 〔‥〕
m(_ _)mはははぁ〜〜。畏まりましてございます〜〜。 ──というかラディカルな構成主義
*《qui…sert encore de sol positif à notre savoir》(p.397)