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The Idea of a Social Science: And Its Relations to Philosophy
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原文にあたってチェックした訳ではないが*1、「リマインド」は──術語的に使用されているわけではなく*2──、著作中で、たぶんここ↓にしかでてこない。「アプリオリ」のほうも頻出するわけではなく、第1章に数度でてくる他は、残りの章にはほとんど登場しない。また、特別に重い含意を担わせれているというわけでもなく、「概念分析(的)」というのとほとんど互換的な仕方で使われているようにみえる。
で、まず「remind」が登場する箇所を:
これらの問題のすべては、1939年に G. E. ムーア教授がブリティッシュ・アカデミーで行った、「外的世界の証明」と題する名高い講演に象徴的に示されている。ムーアの「証明」はおおよそ次のようなものである。彼は両手を次々に差し上げて言った。「ここに一本の手があり、ここにもう一本の手があります。したがって少なくとも二つの外的対象が存在します。それゆえ一つの外的世界が存在します。」 ここでムーアは、「外的世界は存在するか」という問いを、「鼻面から角を一本ずつはやした動物たちは存在するか」という問いと同じ形式をもつものとして取り扱っているようにみえる。後者の問いは、もちろん二匹のサイを示せば決定的に片付いてしまうだろう。だがムーアの論証と外的世界の存在に関する哲学的な問いとの関係は、後者の問いに対して二匹のサイを提示することほど単純ではない。というのは、外的世界の存在に関する哲学的疑念は、それが他のなにものにも向けられているように、ムーアの示した二本の手にも、もちろん向けられているからである。結局、問題は次のようなことである。「ムーアの二本の手のような対象は、外的世界の住人としての資格をもっているのだろうか。」 このことはムーアの議論が全く的外れである事を意味するわけではない。誤っているのは、それが実験的な学問に見いだされるようなものではないにもかかわらず、実験的な「証明」とみなすことなのである。ムーアは実験を行っていたのではない。彼は「外的対象」という表現が実際に使用される仕方を聴衆に 想起させてremind いたにすぎないのである he was reminding his audience of something, reminding them of the way in which the expression 'external object' is in fact used。そして、この事実が示しているのは、哲学の問題とは、外的対象の世界が存在する事を証明または否定する事ではなく、むしろ、外在性という概念を明確にすることにある、ということなのである And his reminder indicated that the issue in philosophy is not to prove or disprove the existence of a world of external objects but rather to elucidate the concept of externality。このことと、現実の一般的性質に関する哲学の中心的問題との関連は、あきらかなことと思われる。[第1章三:邦訳 p.11-12]
そして他方、クルターの発言は、こんな感じ:
「アプリオリ」のほうは、こんな感じ:
[第1章五:邦訳]
クルターの議論は、ウィンチの議論の基本点をなぞりつつ、そこ──概念分析[〜論理文法分析]の作法──に、はたして「会話分析」がきちんと嵌るかどうかをチェックしようとしている ‥‥という風に読める。
*1:とか書いていたら、たった今原著が届いてしまった。確認しなくていいよね。ペーパーバックのかわいい本です。
*2:「ウィトゲンシュタイン派」の鏡(w。