『論争』>「意味論文」

出先なので、文献がないのですが。

注釈2aで、フッサールの構成というカテゴリーが二つの点で曖昧であるとされています。

一方では直接的な明証所持 Evidenthaben と作為 Leisten の間、
他方ではたんに受容的な解明と創造的な製作の間
での動揺である。

とされていますが、何のことでしょう?

「なんのこと」と聞かれても困るが、
それはもともと、オイゲン・フィンクが指摘した*ことなのでした。「構成の多義性」をめぐるフィンクの著名な論考を、ルーマンも その箇所(あるいはこの論文のほかの場所?)で 参照してませんでしたかな。それを読むと吉、かと。
あとは こないだ出た、ザハヴィ『フッサールの現象学』の索引で「構成」を引いて、とりあえずその周辺を読んでみる、とか。
さらにあるいは、「その筋のひと」に尋ねてみる、という手も。>教えて!id:faaくん!──と召喚してみるテスト。
で──手元にないまま読み返さずに続けて書くけど──、その箇所でのルーマンのはなしは、フィンクその議論を追認しつつ、「パーソンズのいう『構成』にも、似たような多義性があるよね」というようなことだったような記憶が。
たいそうアンヴィバレントな感じです。たぶん、「【構成】って言葉は、あいまいで仕方ないけど捨てられないよねぇ」、みたいな。


* これ↓


【追記】20060130
すまん。上記エントリはぜんぶ嘘。(というか勘違い。)

「フィンク」を「ラントグレーベ」で、参照文献を下記著作で、それぞれ読み替えてください。

現象学の道―根源的経験の問題 (思想史ライブラリー)

現象学の道―根源的経験の問題 (思想史ライブラリー)


【追記】20060206
「ぜんぶ嘘」というのは嘘でした。お詫びして訂正いたします。