「伝統芸能の終焉(の維持=反復)」をおもわせたアルフレッド・シュッツと友達シンポの報告も書きたいところですが、とても時間がありません*1。http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040404#p1
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- 出典:ttp://kiri.jblog.org/archives/000593.html#more
とりあえず俺様的に一番のヒットだったやりとりについてだけでもメモしとくと:
サーサス&ハマーさん発表後の質疑応答時に、
(ウェーバーやシュッツが主題的に扱ったところの・社会学の伝統的な課題である)
「社会的行為の主観的意味」ってのは、エスノメソドロジーではどういう扱いになるのか
とかいう(やくたいもない)やり取りが。
で、サーサス大先生が、
どーでもいいじゃんそんなのw(大意)
とカマす。おそらくこの一言で会場全体を敵にまわしたそのサーサスに対し、エンブリーさんが
あんた(ら=EM)が言ってることは、ロマンティシズムだっつのw(そのまんま)
と返す。
たぶん彼は、EMが 観察者なき観察・記述者なき記述を目指している、と誤解しているのではないか、と予想。
ここでハマーさん、「あのー、私も喋ってもよろしいでしょうか?」、とかと笑いをとりつつ、
まぁみなさんの疑念もわからんではないですが、ガーフィンケル翁は──みなさんがたが「主観的意味」という語でもって考えておられるようなことを──<主観的>とか<客観的>とかとは そもそも言わんわけですよ。そこをひとつよろしく(大意)
と受け流す。と。
私としては:
- 我々の暮らしの中で、<主観的/客観的>なんて区別がレリヴァントになるなんてことは相当に異例の・異様なことである。
- ところがいま我々は、実際に、もっぱらこの区別を用いてコミュニケートしている。
- だから、我々がいるこの状況──現象学的社会学をテーマにした国際会議──は、その特殊な事態の ひとつの事例になっている、と考えてよいだろう。
- ならば、<主観的/客観的>という区別には確かに意義があり、それはたとえば、現象学的社会学を、それとして(=ひとつの伝統芸能のような な に か として)維持するのに役に立つ、というような意義なのだ──ということを、我々は、この場のやりとりから理解することができるのではないか。
‥‥などなどと、英語がちょっとでも喋れたら 逝ってみたかったところですが、かえすがえすも残念です。まじめに英語勉強しようかな*2。