紛争処理/法の機能

http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040101#p3http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040114#p2

ターナーはグラックマンの弟子。──だって。へー。(google:ターナー+グラックマン


「社会あるところに紛争あり」‥‥というヴィジョンは、すでに我々にとってなじみ深い「社会観」であり*1、また 紛争処理 が──直感的にいって── となじみの深いものであることまでは、論をまたない。それはそうなのだ。
しかし、だからといって、法を紛争処理と関係づけて規定-すること*2で、「法の──特に実定法の──特有さ*3が描けるだろうか?」 ‥‥これは、ルーマンが「法の機能」を論じるにあたって提起した問い(のうちの一つ)である。そして、与えた答えは、「否」*4だ。
そこで問われているのは──「紛争処理という機能」や「法が社会に対して果たす機能は何か」といったことだけでなく、そもそも──、我々は 機能概念をどのようにもちいるのがよいだろうか、という問いである。

言い換えると、「法は、社会において、紛争処理の機能を担う」とか「社会に対して、紛争処理という機能を与える・果たす」とかいった(クラシカルな流儀における)機能主義的*な語り方そのものが、問われている。
「法は、社会において、紛争処理の機能を担わない」と述べられているのではない*5
この点を押さえることなく、ルーマンが(法制度にとって*6重要な*7)紛争処理の問題を周辺化している、という評価を下すとしたら、それは、ルーマンに対して はなはだ不公平な取り扱いをすることになる。そしてまた、この問いを適切に問わなければ、仮に──秩序の側ではなく──「紛争」の側を重視しようが、クラシカルな機能主義的図式から逃れることはできないに違いない。‥‥それは、同じ区別の反対側を指し示しただけだから。
* 「クラシカルに機能主義的」という言葉で考えているのは、たとえば、タルコット・パーソンズ、アーヴィング・ゴフマン、ミシェル・フーコーのような人たちの(述べた)ことである。
この人たちは、たとえば「社会的秩序はいかにして可能か?」という問いに対して、「規範」とか「権力」とかいった答えを与えたり、また社会的相互作用を<同調/逸脱>とか<境界**/侵犯>とかいった図式をもって記述することに関心をもっていた。「クラシカルに機能主義的」とは、そのような流儀のことを指している。
それが「悪い」と いいたいわけではない。同じ穴の狢***だ、といいたいだけ。
** あるいは「限界」あるいは「禁止」あるいは「規律」etc.(以下略)。
*** 言い換えれば、「同じエピステーメのもとにゐる」、か。

*1:そしてこれらは多かれ少なかれホーベルやグラックマンの法人類学的-紛争処理研究の影響下にある、ということのようである

*2:ここでは、「法には4つの機能があり、それは、紛争処理と(以下略)」といった語り方のことを考えている。

*3:言い換えると「(実定)法のありそうになさunwahrscheinlichkeit」が。

*4:『社会の法』chap.3

*5:あたりまえだ。

*6:というよりは──ひょっとしたら──「法学者にとって」ではないのか?

*7:「重要である」こと自体は──当然のことながら──、ルーマンとて認めている。