25日のエントリhttp://d.hatena.ne.jp/contractio/20040525#1085468313について、
using_pleasure さんからコメントをいただきました。
「質的」調査法の方法論と「比較」を行ってフーコー的な言説分析を位置付ける、というのは趣旨がよく分からん。フーコー本人もそういった調査法と比較されることなど念頭にも置かずに書いたのだろうし、「比較」してどうなるんでしょう??
社会学史学会大会シンポジウム 「歴史社会学」報告概要 から、赤川さん分を再掲示:
以下(当然ながら、赤川さんの意向とはまったくかかわりなく)思うことを思いつくままアトランダムに書いてみるよ。
- 【Q1】趣旨がよく分からん。
- 【Q2】フーコー本人もそういった調査法と比較されることなど念頭にも置かずに書いたのだろうし、「比較」してどうなるんでしょう??
- 【回答例3】「社会学(的ななにか)」として読まれることなど念頭にも置かず書かれたであろうフーコーの著作を、社会学者さんたちは既に「社会学(的ななにか)」として=「自分たちのもの」であるかのように 一生懸命読んじゃって来ちゃってしまっている罠。
- 【回答例4】そのような「読み」──「これは哲学ではない」とか「これは歴史学ではない」とか「これは社会学ではない」とか(以下略)という「読み」──を、読者に、そうした「否認する読み」こそが「正統的なもの」だと読ませるように書くあたりが──ハイデガー同様──、フーコーのずるいとこ*1なのではないかと思われ。ブルデュがハイデガーに対して行った「否認の戦略」に関する分析を想起。(ブルデュ自身が、「同じ」批判をフーコーに対して行ってもいたと記憶していますが:「哲学」と「歴史学」の双方に足をおき、双方を拒絶する「素振り*2」によって利得の最大化を図り/実際に利得を得たフーコー。)
- 【回答例5】一方で、フーコーのおこなった「ワーク」をアナールにおける「歴史的資料」の取り扱い方の「革命」と切り離さずに捉え、他方で、デュルケームを視野の中心に置いて歴史学・社会人類学まで含めて考えてみれば、「フーコーの-社会学-内-における-比較」は、それなりに「もっともらしい」と考えてみることもできるのでは。
- つまり/たとえば、次のような──すこぶるいい加減な図ですが──系譜関係の中でフーコーを考えてみる、というようなこと。
(「前史」としての「実証主義史学」) | |||
デュルケーム | |||
デュルケーム学派 (シミアンとか) |
デュルケーム学派 (モースとか) |
[継承者消滅] [社会学におけるアカデミックポストの確保失敗と戦死者続出と(モースの研究経営手腕のまずさなどなど)で壊滅] |
|
アナール第1世代 (リュシアン=フェーヴル/マルク=ブロックとか) によるデュルケミスムの継承 |
イギリス社会人類学 (マリノフスキー、ラドクリフ・ブラウン、エヴァンズ=プリチャードとか) |
||
アナール第2世代 (ブローデルとか) によるその批判的継承 |
イギリス社会人類学 (サーリンズとか) |
ゴッフマン(とか) | |
アナール第3世代 (いっぱいいろいろとか) によるその批判的継承 |
フーコー | 人類学あれこれ | 社会学あれこれ (に対する集計的概念としてのコチークとか質的さんとか) |
と、以上ちと「資料の扱い」に話が傾き過ぎましたので、また別のことを。