もるたんさんへのお返事:馬場本からの引用文について 編

このエントリは馬場靖雄さんの本からの引用箇所をめぐる話題についてのみ。


またまた、まずは 関連するエントリを引用しておきます:


id:morutanさん 3月14日:[muse-A-muse]>・・ちょっと無責任なんじゃないかい?

「やっぱアンタ官僚的だね」って感じ
それを一番感じたのは機能分化したシステムの閉鎖性批判に対するルーマン的意見(?)をまとめた中の次のところだったんだけど
・・えっと....例の「言語ゲーム」的トートロジーってやつをシステム論のとこにも応用させての言い訳って感じのとこ

(154)
 システムを全体社会に対して閉じられた、「固有論理」にのみ即して動いていくリジッドな存在と捉えるか、それとも自己の環境である全体社会との「開かれた」対話を通して自身を変化させていく柔軟な存在と捉えるかは、二次的な問題に過ぎない。どちらも、システム内部で引かれた区別によって分割された項目を再びシステム内部において結合するための異なった、しかし機能的には等価な方策なのである。むろん両者からは異なった帰結が生じてくるから、どちらを焦点として理論を展開するかは有意味な選択肢を形成するだろうが。
 ルーマンの「閉鎖性」テーゼへの批判者たちは、前者では不十分であって後者への「パラダイム転換」が必要であると主張していることになる。しかしルーマンにとってこの分岐は、さしたる意味をもたないのである。

・・出た
「さしたる意味がない」、と
そして、そこから「だってそんなこと言ったって全部システムの中で予定調和なんだゼ」みたいな話になってくわけさ...
・・・そんなの分かってたよ(大分前に)

【muse-A-muse】>・・ちょっと無責任なんじゃないかい?


■酒井による5月26日のエントリ:


id:morutanさん 5月27日のエントリ:[muse-A-muse]>大人気なく反論してみる

なんか・・
聞きたがってる人がいるので仕方なく説明します
(いまこんなことにかまけてる時間ないんだけどな...なので一回か二回ぐらいしかしません。なんか不毛っぽいし..)
なんかよくわかんないけど..
ここで前に書いたことがさらされていてるので反論なぞしてみようか、と
っつーか、この人向けに書いたものではないんだけどね...(まぁ、いいや)


んで、ポイントとなってるところは<システムへの主体関与>なんだけど..
ルーマンの理論の場合主体関与は否定されていくようだけど..
(もしくは各レイヤにおける主体によってなんらかの反システム的行動があったとしてもそれも予定調和(=システムの流れとして最初から基底されていたもの)というような話の展開になるみたいだけど)
そういうのは主体というものの意志をあまりにも甘く見すぎなのではないかと思うわけです
・・なんつーかなぁ
具体的なイメージとして
ルーマンなんかが言うシステムの場合はどうしても官僚的な統制機構が頭に浮かぶわけだけど...
世の中こういうものだけで回っているわけではないからな
官僚的なシステムってのはタテマエ的なルールであって、世の中の大部分(ってか見えない部分の重要なところ)ってのはコネクションとかそういうもので決まってる場合が多い
・・特に日本の場合は
(ex.地方選挙における談合・集会の実質的力, 会社内部の意思決定のフロー, ボトルネック独占...)
「そういう部分を理論の中に入れて考えてるんだろうか」ってのが疑問
(まだ原点あたってないからこれ以上ガシガシいえないけど)
これって主体の力だろ?
(もしくは人間くさい活動といってもいいけど..)
そういうものを見ていない感じがすごくする(偏見)
で、ほかにもケチづけところがあるんだけど..


この人の元サイトいったら似たような疑問を持ってる人からの質問があったみたいで(っていうかFAQって感じだな)
まとめてあるわけだけど
その大意としては
Q.「社会学(の理論研究)って難しげなこといってるだけで役に立たないじゃん」
で、これに対する回答が....
・・なんだこれ?・・わけわかんないぞ?
つまり、理論研究の必要性を説きたいわけなんだろうけど...
・・ながい
・・・・回答になってない
要はアレだろ?
「基礎研究と応用研究の違い」
みたいなのを言えばいいのに....なんでこういう論理の展開してるんだろ..
いっておくけど、ぼくは元々理論系だから理論研究の重要性とか、そういう分野のあり方をディフェンスしたいわけだけど...
いちお馬場さんについても「すごいな」って思ってるし..
んで、文科省の「実学」本意系の流れにもイヤなものを感じている
でも、さっきの人みたいな感じの説明だとムリだ
アレでは社会は納得しないし、予算も出ないだろ
(まぁ、この人はそういうこと気にする必要もなく、ただ単にこの領域を趣味として楽しんでるのかもしれないから別にいいけど)


んで、「基礎研究と応用研究の違い」だけど...
めんどうだから自分で考えてね
(ぼくがわざわざ時間と脳みそ使って説明する必要ないだろ。なんの利益もない)
あと、システム論についてだけど...
およそシステム論というときには、あらゆるレイヤのシステムを集めて、「その類似点および相違点」みたいなの洗っといたほうがいいんじゃないのか?
(※具体的にいっても何の利益もないので言いませんけどね。人文系オタクの人たちの中には平気でパクる人もいそうなので..)
そういう形でやっていたら、ルーマンがどれほど優れた卓見をもっていたかが分かるのに...
(よくPCもない状態であそこまで論理展開できたな、と)


・・まぁ、いいです
じゃあ、がんばってください (^o^)/

muse-A-muse>大人気なく反論してみる


引用されている馬場本の文章(あるいはその「筆者」あるいはその筆者の「考え」)が「無責任」だと言われていることに対して、反論・弁護したりすることには、私の関心はありません。(私が書いた文章ではないですし。)

教えてもらえるとありがたいのは次の点です:

  • 【Q】「ルーマンやっぱり官僚的だ」という判断を、馬場本の154ページでの記述に依拠して、どう導くことができたか。


以下敷衍。
馬場本からの引用箇所を再掲すると:

 システムを全体社会に対して閉じられた、「固有論理」にのみ即して動いていくリジッドな存在と捉えるか、それとも自己の環境である全体社会との「開かれた」対話を通して自身を変化させていく柔軟な存在と捉えるかは、二次的な問題に過ぎない。どちらも、システム内部で引かれた区別によって分割された項目を再びシステム内部において結合するための異なった、しかし機能的には等価な方策なのである。むろん両者からは異なった帰結が生じてくるから、どちらを焦点として理論を展開するかは有意味な選択肢を形成するだろうが。
 ルーマンの「閉鎖性」テーゼへの批判者たちは、前者では不十分であって後者への「パラダイム転換」が必要であると主張していることになる。しかしルーマンにとってこの分岐は、さしたる意味をもたないのである。isbn:4326652551 p.154]

ここでは、

  • リジッドな(という意味で閉鎖的な)システムも、柔軟な(という意味で開放的な)システムも、どちらも作動的には閉鎖している。
  • なので、「作動上の閉鎖性」に対して、「柔軟な(という意味で開放的な)システム」というビジョンを、批判のつもりでぶつけてみても仕方がない。

というようなことがいわれているように、私には読めるわけです。
で、──知りたいのは──、そこから どこをどうすると

具体的なイメージとして
ルーマンなんかが言うシステムの場合はどうしても官僚的な統制機構が頭に浮かぶわけだけど...

http://morutan.blogtribe.org/day-20040527.html

という「イメージ」へと跳躍できるのか、ということ。
そのへんを埋めていただけると私の側でももうちょっとなんか書けるかと思うのですが。

そうすると、id:morutanさんが、「こういう言説を真に受けて苦しんでいた」ときに、「どういう」ふうに理解した上で苦しんじゃってたのかが、私を含め第三者にも、わかるかもしれませんし。


この件については以上。です。

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