お客さま:成員カテゴリー化装置

google:社会心理学+成員カテゴリー化装置
やややややや。それはどうだろう??
google:カテゴリー+装置+成員|メンバーシップで探すよろし。



というかこれがヒットしちゃうのかw。はてな恐るべし:

以下、某MLでは指摘したことですが:*1
ルーマンの使う「成員」概念とエスノメソドロジー(の、特にMCDがらみ)で登場する「成員」概念は、基本的にほぼ関係のない言葉でございましょう。
ルーマンの謂う「成員」は、あくまで、(コミュニケーションシステムの一類型として捉えられた)「組織(というコミュニケーションシステム)」と関係づけられた概念[=〈構成員/非成員〉-区別]。
他方、MCDで謂う「メンバー」は、

単に、あるカテゴリーを「人」に適用するという事態↓
に照準しているのではなくて
  • 「あるカテゴリーが、それを含むカテゴリー集合collection-の-メンバー[=要素]である」こと 〔→下図の左辺〕

と、

  • 「あるカテゴリーでカテゴリー化される【ひと】が、(その カテゴリー集合collection でカテゴリー化される)集団population-の-メンバー[=構成員]である」こと 〔→下図の右辺〕


と、が重なったところに位置する概念。
『日常性の解剖学:知と会話』所収のハーヴェイ・サックス大先生の論文を20回ほど読むよろし。「それ以上の話」は、現状、残念ながら私もよく知りませぬ。




ということで。
MCDを巡るEMの議論 -と- ルーマンの議論 とを「比較」しようとするならば、

  • まず、議論の水準を、ルーマンの謂う「ひとperson」においたうえで
  • その「ひとperson」が、誰であるのかが問われる(/誰であるのかを示し合う)コミュニケーションの場面(における手続き)を、ルーマンがどのように記述したか、

について見てみないといけないでしょう。

見てみれば、「比較」できるでしょう。
──が、ルーマン理論の側で、これに相当する「特別な議論」は‥‥ 残念ながら私には、にわかには思いつきませぬ。
もしも「比較可能」な議論が存在しないとするならば、それは──「システム論」にとって──、実は非常にまずいことなんじゃないか、と私は思いますが。
なぜかといえば。その手続きを示すことは、コミュニケーションシステムがルーマンの謂う意味で)オートポ (^0^)ノイェーティックであることを示すことと等価であるハズだから(言いかえると、システム・リファレンスを示すことと等価であるはずだから)。 逆に/だから、それが示せないということは「システム・リファレンスを示せない」ということを意味し*2、そして、「システム・リファレンスを示せない」議論が「システム論」を名乗る資格はないはずだから。
私は「システム論者」を名乗るつもりがないので困りませんがw。*3
ということで、たぶん、「直接の比較」は無理なので、次善の策としては、ルーマンが、社会学の伝統的な語彙であるところの「役割」(とか「類型」とか(以下略)のあれこれ)を、どのように改鋳したのか(/しなかったのか)、について考えてみるのが吉、かもしれません。(が、考えたこと無いので私にはわかりませぬ。)
まぁ誰か考えてみてくださいな。(思いついたら教えてください。)

*1:訂正されないようですのでw

*2:トートロジーですが

*3:というか、私、いつも強い方の味方です。