根津甚八の名を呼ぶのは「誰」か:成員カテゴリー化装置について(その2)

【追記】20040706 09:54
hidex7777さん曰く

いや、社会心理で飛んできたのなら導くべきはこちら↓

論文の中味はぜんぜん「社会心理学」じゃないですがw。


さらに曰く:

いや、ぼくが「比較」しようとしているのは、<EMいうところの「カテゴリー」>と<ルーマンいうところの「意味形象」Sinngebilde>です。EMでは《メンバーシップ・カテゴリー化・装置》という概念を使いますが、どうもmembershipという言葉はヒトに対して使用するものらしく、それよりはルーマンの:

あらゆる種類の社会的アイデンティティとシステムは、人格を含めて、社会的コミュニケーション過程でのみ、つまり所与のコミュニケーション可能性とりわけ言語的および非言語的シンボルという尺度に従ってのみ、構成されうる。
……意味形象が増殖しうるのは次のような場合、
 すなわちコミュニケーションがますます一般的でそれゆえ特定化可能な(そのレレヴァンスにおいて限定されている)観点へと志向せしめられているような場合、
 言語とそれの補足的制度とがこれらの観点へと向けて調整されているような場合、
 そして大抵の状況に対して適合性をもつ組み合わせ*2の適切な選択が保障されているような場合である。(154頁)

という議論にのっかったほうが、ヨリひろい意味での「カテゴリー化」を扱えるのではないかと思ったわけです。

アドホックな議論の拡張ありがとう。*しかし

* 【追記挿入&訂正】20040706 15:00
なるほど*1、私は最初の一歩の時点ですでに、hidexさんの質問をとらえ損ねていたわけですな。どうもすみませんでした。
いずれにしても「24段落目はカテゴリー化装置だ!」という決め付けおやぢ的発言に対する答えは、「(まったく)違うよ」に変わりはありませぬが。
MCDの話にからめて「システム・リファレンス」のネタに引っ張ったことについて、ひょっとしたら「何を唐突な!俺はそんな話はしていない!」と訝しまれたかもしれませんが。そう思ったとしたら、そいつもすみません。が。MCDが「レリヴァンス」の問題に関わっている以上、ルーマンがらみでこの話題がでてくれば、そこに(システム論側における-「レリヴァンス」-対応-概念、すなわち)「システム・リファレンス」の話題を噛ませようと考えるのは、私にとってはトリヴィアルな道行き、だったもので。
逆に、そうしないことは、MCDを「レリヴァンス」の問題と関わりなく論じる、という摩訶不思議な(あるいはやってはいけない)ハナシになってしまうわけでして。ま、この点はそのようにご理解くださいませ。
ひろければよいというものでもなし。
一方で、なぜサックスが ほかのカテゴリーではなく・まず・ほかならぬ*2「メンバーシップ」に関するカテゴリーを論題に選んだか、というのは、それ自体として検討に値する(そしてMCDの理解にも関係する)興味深い議題だと思うけど、ただ他方、ある意味ではそれはかなり自明なことであるようにも思います。だって、(「カテゴリー一般」ではなく)「メンバーシップ」に関わるカテゴリーに焦点を合わせるということは──ルーマン側のジャーゴンでいえば──、社会次元に焦点を合わせることを意味するわけだから。これは「社会学者」として、当然まっさきに採ってよい道筋でしょう。そう考えればまた、「カテゴリー一般が扱えたほうが偉い」などとは簡単に言えない、ってことまでは簡単にいえると思いますがどうか。
というか。普通「カテゴリー」ってのは、ウルトラに広いコンテクストで使用され・扱われ・考えられているわけだから、「特別に成員に絞って考える」という強い限定をなしたところにこそ意味がある、という言い方もできると思いますけど。(で、そのやりかたでもってさらに、「ひと」以外のカテゴリーについても 議論の拡張が可能なのか、という課題を考えさせるところにも、MCDという着想の「よさ・おもしろさ」があるのかも、──と言ってみるテスト*3。)



システム・リファレンスについて。
mlsのMLで繰り返し述べたように、システムをリファーするのはコミュニケーション(ないしオペレーション)であって、観察者ではなく、つまりコミュニケーションが連鎖した時点ですでにシステムリファレンスは示されているというべきなのであり、「そのコミュニケーションはいかにしてシステムをリファーしたのか」を記述することは、「システムリファレンスを示す」という課題にとっては冗長である──オーダーが1水準違う──はずです。



「システムをリファーするのはコミュニケーションである(観察者ではない)」という文でもって何を述べようとしているのか、正確につかめている気がしてませんが、
そもそもルーマンの語法上「システム≒コミュニケーション≒観察者」じゃないのさw。
とりあえずそれはさておき、
mlsのMLでは繰り返しては述べませんでしたが:

コミュニケーションが連鎖した時点ですでにシステムリファレンスは示されている

とhidexさんが述べるとき、そこで

    • 何が
    • 誰/何に対して
    • どのように

示されている、と考えているのでしょうか。言い換えると、そこでいう「システムリファレンス」は、

    • 何に対する「リファレンス」[どこから-どこへの言及]

なのでしょうか。

なんで「オーダーが1水準違うはず」と言える(と考えてる)んだ??? ──というのは皆目見当がつかないけど、もしもそう言ってしまうならば、その場合、もっと厄介な課題を引き受けることになる(だろうはずのことを述べてしまっている)のはわかってる?
だって、もしも「記述のレリヴァンス問題」と「システムリファレンス問題」が、水準の異なる話なのだとしたら、それは、
  • 「システム論」は──EMとは異なり(!)──、
    • 「記述のレリヴァンスを確保する という課題」
      -の-他-に/そ-れ-と-は-別-に/さ-ら-に、
    • 「その記述が、どのコミュニケーション[=システム]への言及を行っているのか を適切に示す、という課題」
      を持つ
と述べて(しまって)いることになるはずなわけですが?



「手続き」概念自体が超越的カテゴリーであって、つまり「ほら、わたしはこうやって手続きを示していますよ」と言ったからといって「手続き」を示したことにはならず、「じゃあ、あんたがほんとうに『手続き』を示しているということを証明して見せろよ」ということになってしまい、以後無限後退ですわな。
「サックスの書いていることを読めば、大抵のヒトであれば理解できるし納得するはずだ」といってみても、それはたかだか統計学的規範にすぎない。「納得いかなきゃあんたヒトじゃねえ」で終わらせようという魂胆なのでしょう*5。

  • *5:ぼくはヒトである必要性も必然性も感じていないしそもそもヒトになりたくないし。

(´,_ゝ`)

ではこの話は「これまで」という方向で。

*1:コメント欄におけるやりとりを参照のこと。

*2:この想定自体、違っている可能性だってありますけど。まぁこれは「講義録」を読むときに確認してみましょう。

*3:この段落は、あくまで言ってみるテストです