涜書:広田照幸『教育』

読了。良書だとは思うのですが。泰山鳴動ネズミ数匹。

教育 (思考のフロンティア)

教育 (思考のフロンティア)

たとえばこんな主張。

いいたいことは、個人と制度との軋轢がノーマルな現象であるとすると、失うものの多い性急で短慮な「改革」ではなく、地道な条件整備や改善{ママ}積み重ねで対応できることが、まだいろいろとあるのではないか、ということである。[63頁]

*1には「まったくごもっとも」で穏当な主張であるように聞こえるネズミ。(この段落の前後も面白いので、下に[→]もう少し長く引用しておいた。)
しかしこれ↑を語るのに、なにゆえ、「グローバリゼーションのなんとか」だの

「液体化するなんとか」だの「リスク社会における個人化のなんとか」だの「コントロール型なんとかの監視社会がどうとか」だの「動物化のなんとか」だの
以上「泰山鳴動」の例。以下略。

を持って来なければならんのでしょうか。それが謎。


もうひとつ。
こうした↑主張や、「教育学者が(特に経済的な意味での)再配分の問題を看過して来た」(大意)という主張は「なるほどごもっとも」に聞こえるし、「いまやネオリベ的な社会ビジョンが唯一の選択肢になりつつあり、しかもそれに反論するのは結構難しい」(大意)というのも「ありそうなこと」であるように聞こえる。 が、「それに対する カウンター を提出するためには、教育や社会の未来像を積極的に描くことが必要だ」(大意)とまで言っちゃうのは飛躍のし過ぎってもんでは?

「未来像」を描いておけば、そこから「現在」の裁断や(現在における)「提案」などが「しやすく」なるってのは、もちろん「ごもっとも」でしょうが。でもそれはそれだけの話。
「必要条件」でもなんでもありません。──もっとも著者さんが(もっぱら)「政治的説得」を狙っているのなら、そういうやりかたも「あり」かな、とは思いますけど。


ついでにいえば
序文にて著者さんの曰く:

一方では教育不信の言説が充満し、他方では、教育を循環論的・自己準拠的に正当化する言説が溢れている。そうした状況の中で、教育言説の位相を整理し直してみること。[略] これからの教育をポジティヴに考える為には、どういう地点から教育を見つめ直せばよいのかを考えること──。本書で意図したのは、そうした試みである。

「教育を循環論的・自己準拠的に正当化する言説」が「溢れている」の──かどうかは知らないけれど、もしそのように「見える」の──だとしたら、

  • 「循環論的・自己準拠的な教育記述(=社会記述)」を不適切な仕方でやっている香具師がおり、結果的に「教育を正当化」することになってしまっている。

か、

  • 「循環論的・自己準拠的な教育記述(=社会記述)」を不適切な仕方でしか読めない香具師がおり、つまりそうした香具師はそれを「教育を正当化」する言説としてしか評価できない。

か、のどちらか(あるいは両方)のことが起きているのだと想像されますがどうか。


最初の引用箇所は:
II 個人化・グローバル化の中の教育第2章一つの解としての新自由主義的教育改革という章の、

個人と制度の軋櫟の問題をどう考えるべきか

 とりあえず、個人と制度の軋礫の問題について、もう少し考えてみよう。さまざまな「教育問題」の形態をとって現れる、個人と制度の軋礫は、それが存在することこそがシステムとしてノーマルだし必要である、ということをまずは確認したい。[60頁]

という書き出しで確認される二つのうちの、前者にあたる。著者さんの続けて曰く:

 第一に、その軋礫は、すべての個人が制度に完全には包摂されていないことの現れである。また、制度が単なる個々人のニーズヘの対処の総和にとどまっていない、別の「社会的必要」に向けた機能を果たしていることの現れでもある。その意味ではノーマルなものである。

「包摂inclusion」という語をこの↑ように使うのは

この術語が「制度」への参与関係を指示するものである以上、
「予期や役割が──制度として──強く特定化されている」ということは、同時にまた、「そこから逸脱したり、それに順応し損ねたりする」という可能性や、「ある振る舞いを、逸脱とか順応の失敗として判断・理解する」ための可能性が与えられているということでもあるのだから、
この術語にはすでに「軋礫」が含意されている。したがって、「制度と個人の軋轢」を、「完全なる包摂」(なる奇妙な表現)と対照させて語るのはおかしい、という意味で

奇妙なことであるように思われるが、その点はさておいて引用を続けると:

[略] 個人と教育に関する諸制度との間の軋礫は、個人が「個」として尊重されるようになればなるほど、不可避的に生じてくる。
 とはいうものの、だからといって、教育システムが解体寸前にあるというわけではない。
 見落としてはならないのは、大半の子供は、それでも既存の制度に順応して毎日を過ごしているということである。[略]
 ここ二十数年ぐらい、日本でクローズアップされつづけてきた「教育問題」言説は、システムの隙間や周辺で生じている「揺らぎ」を執拗に掘り起こし、改善を求めて告発するものであった。それは個々の問題の解決への努力を生み出してきた。しかしながら同時に、それは「既存の教育システムはもはや危機に瀕している」という、性急な予断も作り出してきた。メディアによる報道や教育学者の関心、保護者の間で交わされるうわさ話などは、もっぱら、学校の「病理」に向けられてきた。それゆえ、近年の学校像には、ある種の錯覚が含まれているように思われる。平凡な日常の積み重ねが教育という営みの中心的な部分であるということが、そしてその意味では、全体としてみると日本の学校は、決して「危機的」な状況ではないということが、すっかり見落とされている。
 学校や学校の中の日常(教育や生活)という制度は、実際には、割合退屈で単調なルーティーンの積み重ねによって成り立っている。小さな摩擦やトラブルが起きて、それが子供自身によって乗り越えられたり、乗り越えられないままに卒業に至ったり、ということもある。内容を理解できる生徒が多い工夫された授業、困っているときに教員やクラスの友人に助けてもらって何とか乗り切ったといった出来事など、よい教育実践は「事件」としての派手さを持たない。パーソナルに体験される地味なエピソードの累積だからである。
 体罰殺人やいじめ自殺、子供が起こした凶悪事件など、例外的な事件のほうが「構造的問題」とみなされ、日常の学校や教員の地道な取り組み、さまざまなエピソードの積み重ねの結果としての子供の成長ぶりは、教育言説の次元に上がってこない、単なるパーソナルな出来事として片づけられる。[略]
 いいたいことは、個人と制度との軋礫がノーマルな現象であるとすると、失うものの多い性急で短慮な「改革」ではなく、地道な条件整備や改善に積み重ねで対応できることが、まだいろいろとあるのではないか、ということである。

ごもっともです。がしかし。
ここからストレートにでてくる・「飛躍の少ない」見解は、まずは、

  • 「割合退屈で単調なルーティーン」が、じっさいのところどんなものなのかを詳しくしらべる、という(おそらくは「割合退屈で単調」かもしれない、「ルーティーン」的な)作業が、大事でしょう

というような、そしてまた──念のため付け加えて書いておけば──、

  • (著者さんが「例外的」だという)「教育-における-構造的-問題」だのと言われている諸事象──も、その「割合退屈で単調なルーティーン」の中で生じているのである以上、それら──について論じるにしても、それを「割合退屈で単調なルーティーン」と切り離して論じてはまずいでしょう

というような、「退屈な」もののように思われるわけですがあなたどう思うか。

「ドブツーカ(・∀・)!」だの(以下略)──といった、過剰で本質論的な仮説*2──のでてくる余地は どこにあるというのか。

私は、この「ネズミ=退屈な見解」であれば「支持」いたします。


そして「その2」がこちら。続けて著者さんの曰く:

 第二に、そうした軋礫は、普遍的な原理を持たない教育の自己調整メカニズムとして原理的に必要である。制度としての学校は、究極的な根拠を持たないままの多くの決定の上に成り立っている。その決定は、それぞれ何かを犠牲にしている。[略] 個人と制度の軋礫から生じる「教育問題」は、制度の窓意性恣意性と可変性を明るみに出し、別のものへの変化を求める。
 普遍的な原理によって根拠づけられた「究極の望ましい学校」は存在しない。教育というパターナリスティックな権力が個人にどこまで介入するかについての普遍的な基準も、おそらく存在しない。何が教えられるべきで何が教えられるべきでないかについての、普遍的な枠組みもおそらく存在しない。そうであるとすると、軋礫から生じるクレームや必要こそが、学校を別のあり方へと変容させるコンパスや動力源の一つとなるのである。それゆえ、1970年代から今日に至るまで延々と繰り返されてきた学校批判や「教育問題」の噴出は、公教育の終焉や解体を告げる事態を意味するのではない。それらは、学校・公教育という制度が普遍的な原理を持たないままシステムを自己調整するための、新たな基準を作る動きであるといえる。すべては動的で、暫定的なものである。[63-4頁]

ごもっとも。です。
で、これについてもコメントは同上。


【追記】20040803 00:18
コメント欄にコメントをいただいたので、こちらに(短い)続きを書きました。

*1:「保守的」な (?)

*2:言いかえれば、「大きな物語」w