歴史学・歴史主義・知の考古学

「長い歴史」と「短い歴史」についてコメント欄にてご教示をいただきました。ありがとうございます。

# H 『宣伝のようではしたないものの、大掃除よりは楽だと思うので貼っておきます。http://www.thought.ne.jp/html/text/medio/medio223.htmの頁内で、”p.14”を検索してもらうと、序文の該当部分のレジュメがあります。ここでフーコーがいっている、分配、分割、レベル分け、セリー化のもととなるのが、書かれた歴史ではなくて、可能態としてのディスクールの総体である「アーカイヴ」、分配……セリー化などの「法則・秩序」を定めるのが、『知の考古学』の企図。(長い・切断双方の)歴史家は対象を「分析・記述」するわけですが、アルケオローグは一定の秩序に従ったディスクールの体系を「標定・記述」するといったところでしょうか……。』

宣伝上等。(はしたなくなんかありませーん。いつもココロに営業を♪)


 原さん──カミングアウト(?)されたので、以下名前で呼びかけますが──に書いていただいた事は、私のいまいる地点からはすでに・かなり-遠く離れた/先に進んだ、『考古学』の主題の内部にたちいった話になると思います。が、残念ながら私は(すでにすっかりその内容はわすれていますし、したがって)まさにこれからそこに踏み込もうととし(ようかどうしようか迷っ)ているところなので、うまく対応ができません。たとえば上で、

  • 歴史家は対象を「分析・記述」する/アルケオローグは[‥]ディスクールの体系を「標定・記述」する

と書いてくださった対比や、上記URLでの、

両者で決定的に違うのは、

  • フーコーにとっての出来事はディスクールの次元(‥)で考えられるのにたいして、
  • ドゥブレはメッセージがテクストを突き抜けて革命や騒擾、制度的転覆のような社会事象となることを出来事と呼ぶ。[→

といった仕方での対比は、

「割り付け」をしたとき以来、こちらも久々に通読しましたが(^_^)
──たとえば、それがどのくらい・どのような意味で「決定的に違う」のか──よくわかりませんでした。


 私が目下のところ気にしているのは、こうした↑議論以前の、もっとささやかな事柄──フーコーはアナールに対してどのような線を引いたのか──であり、そして、とりあえず──これまでの手短な検討の限りで──わかったのは、

  • 私の問いに直接に関わる事柄をフーコー自身が「パラドクス」という言葉で定式化しており、しかも、
  • そう定式化しているにもかかわらず、どうやら彼は、それにちゃんと取り組んでいないようだ

というところまで、です。


‥‥という前提のうえで。
 原さんの「メディオロジー入門」を読んで素朴に気になったこと──のうち目下の論点に関わること──を書いてみると。


 原さんのこの論考では、2.42.5で、「長い歴史」と「短い歴史」が対比されており、そうであるからこそ──いま私が読んでいる「長い歴史」と「短い歴史」の双方について言及しているフーコーのテクストの読解に──参考になるだろう、ということで、参照を促されたのだろうと思います。が。
 この論考で参照されている「長い歴史」は、マクルーハン〜ドゥブレやルロワ=グーランなどのそれのようです。まずここで、「それら」と、アナールが語るような長期持続(という意味での「長い歴史」)とは、どんな意味で同じだといえるのか、という素朴な疑問がわきます。

そしてそれ以前に──原さんの論考の内部でも、同じ問いを問う事ができるわけですが──「メディア技術によって規定される長い歴史」と「人類史的なタイムスパン(という意味で長い歴史)」とが、どんな意味で「同じ」なのか、という疑問もわきます。


 そして、それら──「技術論的」であろうが「人類史的」であろうが「長期持続」であろうが──すべてに(にまつわる議論に)ついて思うのは、‥‥「長い歴史」を扱う事に、「(理論的)根拠」がいるのかどうか。そもそも それがよくわからない‥‥、ということです。


 たとえば──本がどこにあるのかわからないので記憶だけにもとづいて書けば──、ブローデル『物質文明』であつかったのは15世紀から18世紀だったとおもいますが、そこを扱う事にしたのは、その期間が「生物学的なアンシャンレジーム」(とブローデルが呼んだもの)の内にあったから、だった(と記憶します)。 これはなんら「理論的」な根拠ではない。そしてそれはそれで、特に「理論的に問題となる」ようなことではないはずです。
 同様に──フーコーの言葉を引くと──「経済成長のモデルだとか、交換の流れや発展の利潤や人口衰退の定量分析だとか、気候の変動の研究だとかといった、一部は自分たちが拵え上げ、他の部分は受け継いだ諸道具」[590101:IIIp.101]を用いる事によって描けるようになった「長期の持続」がそのように描けるのは、まさにそのような諸道具によってのことである、とかいう話であるのならば、ここにはいわゆる「理論的」(だとか「方法論的」とか)と呼ぶべきような問題は、やはり、特になにもないわけです。
読者はただ楽しくそれを読んでいればよろしい。
ちなみに、私はここで、「長期スパンで歴史を扱う事にそもそも根拠など必要ない」という積極的な主張をしているわけではありません。念のため。
 それが──特に「長期持続」について──、ここ[=『思考集成III』や『考古学』]で「理論的・方法論的」な「問題」になっているのは、ほかならぬフーコーが、それを「パラドクス」という形で定式化しているから、
さらに「長期持続」を「非連続性=切断」によって規定しうる、というスタンスをとっているから
でしょう*。
そのような定式化や規定(の試み)が おかしな事である、といっているわけではありません。念のため。
ただ単に、「理論的に問いをたてたなら、それは理論的に解かれねばならないだろう」と思うだけです。(そしてまた、「にもかかわらずフーコーはどうしてそうしないのか」と訝しんでいるだけです。)
* さらにたとえば。パラドクスを解消するやり方には、「双方を尊重する」のをやめ(て、どちらか片方だけを尊重す)る、というやり方だってありえます。つまり──たとえば──「俺は【切断】だけで逝く。【長期持続】なんて相手にしない」とさえいえば、とたんに「パラドクス」は消えてなくなります。しかしフーコーは、そうした路線はとっていないようです(少なくともスローガン的には)。
「表面的に」テクストを追う限りでは、「スローガンはともかく、そういう↑ことを言って=やってしまってることになるんじゃないの?」という疑問が湧きかねないところがまた困ったところですが....



 それはそれとして、もう一点気になる──やはり素朴に気になる──ことがあります。フーコーもそうですが、原さんも、「いわゆる歴史学」にあまり頓着していないようにみえる点です。
 フーコーのテクストを読んでいると、いわゆる「実証史学」など存在しない──そして歴史学はすべてアナール派に占拠されてしまった──かのような気になってきますが、そんなことはもちろんないわけです。なので、私としては、「長期持続/認識論的切断」も気になりますが、それ以前に、「アナールと(ふつうの)歴史学の違い」も気になるわけです。

先日知人と話していた時には、笑い話として、「ふつうの歴史学」は、ごくごく短いスパンで研究をする(たとえば、フランス革命の周辺5年間、とか)ので、そこが世紀をまたがって研究するアナールとの違いだ、とかいう話になりましたが。
これはもちろんトートロジー
さらに、フーコーの──少なくとも私がいま読んでいる──テクストでは、(いわゆる)実証史学と歴史主義的形而上学の区別も(しばしば)曖昧です。
この点も、読んでいてあたまを抱えたくなるところです。というか、「ふつうの歴史学者」は怒っても おかしかないですわな.....。


そんなわけで、

  • 歴史家は対象を「分析・記述」する/アルケオローグは[‥]ディスクールの体系を「標定・記述」する

といった対比だと、

    • 「アナール/エピステモロジー」-と-「ふつうの歴史学」との違い

や、

などを気にしている私の関心には、ざんねんながら擦らない、ということになってしまうわけなのでした。






てことでとりあえず。
フーコーは、

についても、

  • 「長期持続」-と-「連続性」との違い

についても──とりあえずいま読んでいるテクストでは──語ってくれていないようなので、諦めて、先に(というか別の論点に)目を移す事にしたいと思います。


さしあたりのお返事はこんなところで。