「システム」と「言説」

かねたさんにいただいたコメント(ありがとうございます)の後半部分にコメントをば。
かねたさん曰く:

  • [11] とりあえずぼんやりと考えていることを書くと、このフーコーとシステム論の差異というのは、言説あるいはコミュニケーションの帰属先をどこに設定するのか、という点に存在するんじゃないだろうか?
  • [21] フーコーの場合、言説の帰属先は全体社会ということになり個別のシチュエーションでの発話や会話は言表ということになるが、システム論的にはコミュニケーションはシステムのコミュニケーションとしてのみ記述される。
  • [22] フーコーの言説概念が構造(=社会)全体の言説を示しているのに対して、システム論的なコミュニケーション概念は「全体社会」のコミュニケーションを指示しているのではなく、あくまでもそれぞれの社会システムのコミュニケーションだとして解されている。
  • [23] このような言説概念とコミュニケーション概念との違いが何に基づいているのか、といえば、それはおそらく構造概念とシステム概念の違い、という点に基づいていて、どちらの視座から「社会」を認識し理解するのか、ということが鍵となっているように思う。

まず、先述のように、<システム/構造>という区別は役に立たない──と私は考える──ので、[23] を考察対象から外します。そのうえでコメントすると、
[11] についていえば、「言説の帰属先」と「コミュニケーションの帰属先」とを並べて比較するのは、不適切かと思いました。やるなら、

  • <言説の帰属先>と<社会システムの帰属先>
  • <言表の帰属先>と<コミュニケーション(or 行為)の帰属先>

じゃないでしょうか。
そしてまた、「帰属」という言葉が複数の使われ方をすることに注意しないといけないでしょう。たとえば、「言表の帰属先はどこか?」という問いに対しては、次の(どちらも正しい)二つの答えが考えられます:

  • 或る言表は、或る言説に帰属する。[〜言説の規則性]
  • 或る言表は、或る(言表レベルの)主体に帰属する。[〜言表の機能(b)]

同様にして、「コミュニケーションの帰属先はどこか」についても、二通りの(どちらも正しい)答え方ができます:

  • 或るコミュニケーション(or 行為)は、或る システム に帰属する。[〜オートポ■エーシス]
  • 或るコミュニケーション(or 行為)は、或る person に帰属する。[〜帰属(という複雑性の縮減)による行為の構成]

というように。  ──それで........議論はどうなるでしょうか.....?


次に。私は [22] のここ↓に賛成できません。

  • 【P】[22'] 言説概念は構造(=社会)全体の言説を示している

フーコーを、「ゲゼルシャフト」レヴェルの大味な概念一発で大味な仕事をした人、だと見なすのは、ちょっとフーコーさんがかわいそうなきがします。
それはアルチュセールのような人にこそあてはまる事なのでは?
ゲゼルシャフト」概念(〜〈Gesellschaft[単]/Sozialesysteme[複]〉区別)と比較すべきなのは、フーコーの場合、「アルシーヴ」の概念(〜〈アルシーヴ/言説〉区別)ではないでしょうか*。(そして、かねたさんの主張は、〈アルシーヴ/言説〉の区別を 適切にしていないときに出てくるものではないでしょうか。)
* この二つが「おなじ」概念だ、といっているわけではありません。念のため。(この水準で──ほかの水準でではなく、この水準で──比較すれば(こそ)、その差異から利得が得られるかもしれない、と言っているだけです。)


ところで【P】は、次のことを示せば覆せます:

  • 【O】「言説」は複数有る。

そして、これは簡単に示せます。
『考古学』の中から──ほとんどいくらでも──、その例を採ってくる事ができるので。
実際にいくつか──パラパラめくって目に留まったものをアトランダムに(各章からひとつづつ)──とってきてみましょう:

  • 例1:[II-2:p.51-2] 精神疾患は、それを命名し、裁り抜き、記述し、説明し、(‥)精神疾患と判断し、そしてときには、その名において、 さまざまな言説discourses──(‥)──を分節化しつつ、言葉をそれに提供したすべての言表の群のうちで述べられたものの総体によって構成されている。[──訳がめちゃくちゃですが。]
  • 例2:[III-3-B: p.180] 今や私に残されているのは、分析を転倒せしめ、さまざまな言説編成discursive formations をそれが記述する諸言表に帰着させた後、他の一つの方向に、今度は外側に、これらの概念の正当な使用を求める事である。(‥)
  • 例3:[IV-4:p.238] 考古学的分析は、言説の編成を個別化し、記述する。つまり考古学的分析は、それらを比較し、それらが現れる同時性の中で相互に対立させ、(‥)それらをとりまき、それらの一般的要素として役立つ非言説的実践とそれらとを関係づけるはずである。考古学的研究は、(‥)常に複数である
    「言説どうしを比較する」と言ってるんですから、「言説は複数ある」わけですw。



この引用だけで【P】が成り立たない事の証示はできたのではないかと思います。


私自身の積極的な「解釈」をいえば、『考古学』におけるフーコーの課題は──ちょうど逆のこと、つまり──

  • 「如何にして、複数の・限定された・局所的*な 記述の単位領域(=言説)たちのそれぞれを適切に区別するか**」
  • 「如何にして、取り出した一つの記述の単位領域を適切に記述するか」
  • 「如何にして、複数の記述の単位領域たちの間の関係を適切に記述するか」
  • (以下略)

についてなんらかの方針を──答えを、ではなく方針***を──与えることなのではないか、というのが現時点での見解です。

* フーコー自身による表現。
ちなみに、「複数の言説を適切に区別すること」は、序文に出てくる「非連続性を働かせるという仕事」の、一つの含意(=答え)になっているのだと思います。
** たとえば、III-3-B:p.175 を参照。
*** 「史料の扱い」の作法は、──方針を与える事はできても──「答え」を与えられるようなものではないでしょう。


というあたりでとりあえず。