そういえば、土曜の研究会のもう一つのネタは大庭健『所有という神話』評だった(評者は佐藤方宣さん)。
- 作者: 大庭健
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2004/07/27
- メディア: 単行本
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あれこれのやり取りの後、大勢的世論としては、「システム論的意匠の皮一枚剥ぐと、古い古い社会学の本──「疎外」だの「個人と社会」だの(以下略)──を読まされているようですなぁ。ほっほっほ。」というところに落ち着く。
というか落ち着いたと思ったので、「ではそういう方向で」と思って安心していると、さらに「そうするとやっぱり、なんでルーマンなのか?という気がしますよねぇ。」とか引き戻す香具師が次々登場。(もぅいいじゃないかその話は!)
とりあえず、
今回の著作の場合、システム論風にすることにはほとんど意味はない。それはみなさんのおっしゃるとおり。
おそらく「メリット」は、単にこのスタイルのほうが
大庭さんが原稿を書きやすい ってところにある──に20コチジャン。
とかカマしてようやくその流れにとどめを刺す。
「最終的」なヨロンは、
記述や分析を行うべきところで説教*かまして済ませてしまう、という点 いかがなものか。
というところに落ち着いた(という認識でよろしかったでしょうか?)。
システム論的なスタイルを採用することに意味があるのは、少なくとも2つ以上(できれば3つ以上*)のリファレンス・システムを挙げ、そのシステム・リファレンスを丁寧に腑分けして論じる、というとき。大庭さんの『自己組織システムの倫理学3部作』についていえば、それは〈社会的システムたち/心的システムたち〉という区別をネチネチと論じたところに取り柄があり、その枠内で議論しているうちはある程度メリットを享受できるのだが、今回のように、経済的コミュニケーションに照準しようとすると、それではもう立ち行かなくなるし、「メリット」もなくなる。つまり、経済的コミュニケーションに照準しようとするなら、それを他のコミュニケーションから 適切に区別=指示する手だてを講じ[←これが私の謂う((© 西田幾多郎、宮台真司 et al.))「システム・リファレンス問題」である]、事柄を、それら個々の-システム・リファレンスに即して=リファレンス・システム(のオペレーション)に差し戻して-記述していく**というやりかたをするのでなければ、「システム論に依拠するメリット」などない ‥‥ってのは当然なのである。
‥‥と私は思うのだが、これがすでに──ただでさえ人口の少ない社会学の辺境地域──「ルーマン派」諸派内でも──さらに──「少数派」意見***かもしれない罠がありw。といったことに思い至って憂鬱になる私♪
*** ルーマン諸派のうち、この見解を採る人たちが──私の謂う*2──「ルーマン派(隠れEM系****)」である。 他の諸派については はてなキーワード「馬場靖雄」を参照のこと。
**** あるいは「ルーマン(隠れニシザカ)派****」、ともいう。
**** ただしネ申はすでに不在なのだが。