涜書:ルーマン「閉鎖性と開放性」

@三田

  • Niklas Luhmann, "Closure and Openness: On Reality in the World of Law" in

Autopoietic Law: A New Approach To Law And Society (Series A--Law)

Autopoietic Law: A New Approach To Law And Society (Series A--Law)

IV〜。終了。


〈出来事〉概念をベースに、「(特定のシステムの)構造構築」-と-「(複数のシステムの)相互浸透」とを同時に語る、という企図そのものは理解できる。が、事柄の難しさに比して論述が大雑把過ぎ。これでもって何が達成できたといえるのかは甚だ不分明。

とりあえずまずは、システムを主語にして語るやりかたと、出来事を主語にして語るやりかたを混ぜて使うのは、是非ともヤメた方がいい、
システム論のタテマエからすれば、両者を切り離すことはできない、ということは分かるが、しかしだからこそ、論述のうえではキチンと区別して表現しなければならないはずだ、
と私は思うぞ。>ルーマン

たとえばこんな記述[IVの2段落目]:

[社会システムの要素である〈出来事〉は生じたそばから消滅してしまうので、システムは連続的に disintegrate されていることになる。そうした事態は、][...] can allow events to act simultaneously on several systems, as long as only their selectivity and their self-referential interweaving with other events always belong to different systems. Thus, communications are always also events in the consciousness of the participants. Nevertheless, the systems remain separate, because the events (which can be identified by an observer as one event of conscious communication) select in each case from different systems in relation to different other possibilities; this constitutes the meaning of the event in each case. That the elementary operations have the character of events can guarantee a high degree of interpenetration of the various systems, preventing, through the disappearance of the events, the systems from becoming stuck to one another. Thus, albeit in extremely precarious form, extremely close relationships between system and environment can be produced. The transience of the "material" is exploited in two ways; for the reproduction of the system and for the interpenetration of system and environment.



さらに/では、「大雑把だからダメで、もっと紙幅が与えられればなんとかマシなものが期待できるのかな?」、と想像してみると、それもなんだかアヤシイところがある。というのも。
一方で、そもそも〈出来事〉について語る難しさは、〈出来事〉が「〈出来事たちの 連鎖sequence〉のうちにおいてそのアイデンティティを有つ*1」というところに

つまり、〈出来事〉概念が、すでに〈システム〉概念を含意している
したがって、たとえば「システムとは出来事の 連鎖sequence の謂いである」という言明は可能であるにしても、このことによって「〈システム〉概念を〈出来事〉概念で基礎づけた」ことになるわけではない
言いかえると、──〈システム〉概念ではなく──〈出来事〉概念から出発して〈システム〉概念を「導出する」ことはできるが、そうすることが「システム論よりも もっと基底的な議論」を行っていることにはならない
、などなど
というところに

あるわけだが、
他方で、ここではそれに加えて、「複数のシステムの絡み合い」というさらに難しい論題が重なっているわけである。

と、単に課題を書きだしただけでも私は目眩がしてきそうなのだが、それはともかくとして、

そして/したがって、読者としては、この難しい論点を、ルーマンがどのようにクリアしてくれているのか、という点にこそ注目することになる。であるのに、ルーマンの論述は、その事柄の難しさそのものに対して無頓着であるように読めてしまうのだった。
たとえば上記の引用文は、〈出来事〉のアイデンティティを前提にしているように読める。

〈一つの出来事〉-と-〈複数のシステム〉。 しかしそもそも、そうした語り方が(どんな意味でなら)可能なのか、そのことも含めて問題的であるはずだろうに。

陳述上の便法としてそれもありかとは思うが、それならば、同じ陳述内のどこかで、その前提について吟味する件りを入れておかなければならないはずだろう。──と、私ならばそう思うのだが...。


まぁ、「いつもながらのこと」ではあるが。困ったもんである。

*1:super-ject(©ホワイトヘッド)。『社会的システムたち』(1984)「構造」の章を参照。