涜書:ローティ『哲学と自然の鏡』06

昼食。パットナム&デイヴィッドソンを論じた第6章。だんだんむつかしくなてきたよー



本日のご金言:

「言語論的転回」が始まってこのかた、哲学者とは言葉の意味に通じることによって概念にかんする知識を有する人であり、それゆえ、哲学者の仕事は経験的なものを超えたところにあると見なされてきた。 けれども、「経験的考察」(たとえば月の表面には斑点があるとか、〈三部会〉なるものは満足に機能しないだろうという発見)は、「概念の変化」(この場合ならば、たとえば天体や国家にかんする新しい概念)のきっかけにはなっても、それを必然的に招くわけではないことが認められるに及んで、哲学者と歴史学者の役割分担はもはや無意味なものとなったのである。 あれやこれやの発見の結果、アリストテレス的な概念図式の放棄が合理的であると一旦主張されれば、「意味の変化」や「概念図式の変化」の下で理解されるべきものは、「とりわけ中心的機能を演じている信念の変化」にほかならなかった。 歴史学者古い概念図式から新しい概念図式への変化を理解できるし、また、もしもわれわれがその時代の知識人であったならば、一方の概念図式から他方のそれへと赴かざるをえなかっただろう となぜ考えられるのか をわれわれに説明することができる。われわれが納得できる概念図式の変化の過程が「合理的」な過程であることを示すのに、歴史学者がすでにやったこと以上に哲学者がつけくわえ得るようなことは何もない。[‥]哲学者が用いることのできる特別な方法(意味分析)など存在しないのである。というのも、「意味の不変性」は、単にカント的な主張──すなわち、探求が合理的であるためには、アプリオリに知りうる恒久的な枠組みの下でそれが遂行されねばならないという主張──を、「言語学的に」言い換えたものに過ぎないからである。この枠組みとは、可能な経験的内容を制限するものであり、また、現れてくるあらゆる経験的内容をどう処理すれば合理的なのかを説明してくれるような図式のことである。図式が一時的なものであることがひとたびわかると、図式と内容の区別そのものが危機に追い込まれた。そしてそれと共に、カント的な哲学観、すなわち科学的探求におけるわれわれ自身の側の寄与(図式的、形式的要素──たとえば「言語」──)にかんするアプリオリな知識によってのみ哲学は可能なのだとする哲学観もまた、危機に追い込まれたのである。[p.311-2]

ここまでがこの章のファーストステップ。

いいところ狙ったつもりだったんだけど、独立して読むと何が面白いんだかわからんなぁw。一つ前のところの議論がないといかんかったか。失敗。