会議が長引いているうちに乗り遅れたわけだが。http://d.hatena.ne.jp/contractio/20050320#c
荒谷さんには
このままここで続けていると、contractioさんに迷惑な気もしますし、
とか
あまり人のうちのコメント欄を「炎上」させても何なので、
とか気を使っていただいてますが、べつにそれは迷惑というほどのこともないのです。
あと、ネタ投下したつもりないのにむやみに盛り上がりやがって、それじゃ俺がかわいそうだろ、とか。その程度のこと。
問題があるとすれば、コメント欄のやりとりがちっとも面白くない、ということのほうです。
そもそも──本人がそう述べているように──荒谷さんの報告は「とりあえずのお勉強ノート」だったわけで、いなば大人が噛み付くようなネタ自体が存在しなかったわけでして。なので荒谷さんは単に、
つーかあんた俺の報告聞いてないじゃんw。
とだけ言って済ませておけばよかったわけです。
なのに、書かなくてもよかったはずのこんな↓こと書いちゃったあとでは、冒頭のお気遣いコメントも虚しく響くところではあるのですよ:
しかし、正直いっていなばさんのリベラル傾向?の経済学の読み返し、あるいは、「ソーカル事件」を発端とするポストモダンとの決別?みたいな動機は全く共有できませんです。「マルクス主義」の誤謬を引きずるつもりはないですけれど、御著書の中での切り捨て方はあまりにも「敵方サヨ」を矮小化しすぎと思いました。
これ↑を書かなきゃ、「いなば大人(わりと勝手に)釣られ」→「いなば大人(わりと勝手に)反省」という図で終わったわけで。
なのに きっちりと自分で餌撒いちゃっててはしょうもない。
プロパーな哲学業界に身を置きつつ、経済学の議論に(なんらかのしかたで──おそらくは「思想史的な仕方で」)コミットしていこうというココロザシ自体は立派なもので、がんばってくださいね、というハナシなのです。しかも、それによって業界内外で
軋轢が簡単にやまほど生じてしまうであろうことが、業界事情をほとんど知らなくとも 比較的容易に想像できてしまうからにはさらに、私としては、荒谷さんの述べようとすることを 基本的にはわりと共感的=同情的に汲み取ってみたい*し、少なくとも研究をディスカレッジするようなことはしたくないな‥‥とまではおもうわけです。でもね。
僕には英米系の人が、もう当然のように語っているいろいろなことが、時にほとんど何を意味しているのか不明であることがあるわけですが、それは彼らが「理性」として当然だと思っている論理を、根拠も明らかではないままに、強要しているからのように思われるわけです。とかと言われてしまうと、私としては ふつーにかなりヒきますが。
筋金入りの素人たるべく日々研鑽をツンでいる俺に言わせてもらえば、荒谷さんは、ちょっとまじめに、「その筋のひと」との喧嘩の仕方(というかコンタクトのとり方)を考えてみた方がいいんじゃないか。と、先日の報告およびコメント欄でのやりとりを拝見してておもったのですが。どんなもんでしょうか。
経済学に今後も「哲学的コミット」をしようとするなら特にそうだし、それ以外のことをやる場合でもコトはかわらない。 選択対象分野はどうあれ(つまり経済学であったとしてもなかったとしても)、またどんなたぐいのプロジェクトであれ、荒谷さんが、「現実の中に生きている論理」を掬って哲学する*という野心をもっているなら、いずれにせよそれは必要なことなんじゃないか──という気がします。
大仰にもお勉強ノートに「経済学批判」なるタイトルをつけるセンスがまず私にはわからない*なぁ、ってのはともかくとしても、しかしこんな↑タイトルつけたら
オーソドックスな経済学そのものに対してもその上に立ち、それを裁けるようなものを構想していると受け取られても仕方がない。
いくら「いやこの言葉には哲学的-思想史的な深い含蓄が(中略)あるのであって**(後略)‥‥」とかとか、「相手の誤解」を解こうとしてもそれは無理というもの。
さらにしかも、自分がそこで積極的に目指しているものを──少なくとも目下のところは──はっきりとした形で人に伝えられるような状態にない***のなら、なおさら......。
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経済学も現象を記述する一個の理論であるわけですが、しかし、同時にその理論が、現実の経済現象の流れを方向付ける力をもつわけです。そうした現実を規制する力を持つ理論を、「思想的実在」と呼び、その(理論がよってたつ思想史的な)基底を探ろうという企画は──その謂わんとすることを理解できた気はぜんぜんしないけど、とにかくも──、「ガチかつメタに「ふつーの経済学」とバッティングする」ようなもんにもみえないわけで。だとしたらもっとふさわしいタイトルがありそうなもんですが?
*** でしょう? 私には伝わらなかったもの。
だからこんなこと↓言ってちゃだめですよ。だってこういうの↑、文体の問題じゃないもの。
コメント欄とかに書いていると、特有の文化とかもあるし(真面目に書くとかえって吊されるとか)、ある意味、荒れた文章にならざるをえないようにも思われるのですが、そうした文体で内容的に突っ込んだ話をするのは難しいですね。
‥‥いや、文体の問題なのかもしれないけど、荒谷さんが考えているような意味でのそれじゃ、おそらくないもの。
そうじゃなくて、荒谷さんが、上の野望路線を今後も突き進もうとするなら──そうしてほしいけど──必要なことは、たとえば「普通に経済学の専門家をやっている中のひと*(複数)」と友達にな(って、一方では自分の言葉がちゃんと伝わるものかどうかを、他方で 相手の領域の議論を単純に誤解してないかどうかなどなどを、日々チェック&微修正しつづけ)る**、というようなことじゃないでしょうか。これが一番手軽で効果の大きいやりかた。です。私の経験からすると。
そうしないと、いつまでも、荒谷さんの「批判」は経済学の人には「門前払い」(だけでなく、おそらくは「人文電波***」規定)の対象にとどまり続けるだけでしょう。(だからこそ、その「外」で「一方的かつ圧倒的な勝利」をおさめることができるだろう、と予想してみることはできますが。‥‥でもそういう学問人生は あまり面白くなさそうな気が....。)
*** 「人文」電波、というのは誤った規定だとおもうけど。だってこれ、「人文科学か社会科学か、それとも自然科学か」というような問題じゃぜんぜんないからね。
さて。当日の報告について以下少しだけコメントをば。