涜書:春日『貨幣論のルーマン』、稲葉『経済学という教養』

昼食。あいかわらず自己記述あれこれについて。

貨幣論のルーマン―“社会の経済”講義

貨幣論のルーマン―“社会の経済”講義

発売当初に読んだ時にはあまり印象に残らなかったのだが、この本では──84年の『社会システムたち』でルーマンが提出した──「3つの自己準拠」について わりと丁寧に議論してくれていて[ex. p.152-]、その点はよい。マリノフスキーを引き合いに出しているのも、議論の骨子を読者に示す点では成功している。が、p.8-9 で「反省的自己準拠」について語る際に、最終的に「合成」という観念に訴えているのはいかがなものか。それでいいなら最初からそういう議論をすればよいのであって、そもそも、こんなややこしい議論をする意味がない。

=「合成」(なるもの)を作動に即して語れなければしょうがない。



経済学という教養

経済学という教養

ところで、いなば大人が別館(20050422)で謂うところの「環境」は、ルーマン自身の術語使用に即して謂えば「システム」のほうに──そして、大人が謂うところの「システム」は、「参与システム」に、それぞれ──相当し、そしてまた 大人が「マクロ」という言葉でもって主題化しようとしているのは──奇しくも(?)──、「システムの自己記述」に相当するトピックではないかと思われるのであった。
 というのはともかくとして、なにしろ「袋小路に入っていった──ありていに言えば、外界との生産的な対話のルートが意図してかせずしてか断ち切られ、カルト的に自閉していった」とまで揶揄されているのだから、ルーマニ屋側としても なにがしかのアカウントをしたほうがよいと思われるわけだが。(>誰か。)

というか呼びかけられたのは俺ですかそうですね。(困りましたね。)

とりあえず『教養』再読の方向で。