二次の観察について:その4


mixi へのエントリで、私はこんなことを書いたわけですが:

私自身は、〈一次の観察/二次の観察〉をめぐる議論を、「盲点」や「ありそうになさ」というトピックに焦点化させてゆくやりかたに反対する「立場」を採っている

と。
これについて、いまのところまだ敷衍していません。私自身としては、

なにしろこちらに進まないと話が一向に「社会学」にならないので、

こちらのほうを優先したい気もするのですが、いままでのところ論点不明確なまま議論が進んでいる──ように私にはみえる──なかで、「論点の明確化」と「私の見解の提示」の双方を行うのは負担が高すぎます。後者については、──可能であれば、ですが──別建てて提示させていただく事にしましょう。


さて。
私が知りたかった事は、「Mさんが、脱構築と二次の観察をどのような点で比較しようとしているのか」ということでした。(今も依然として。) そして、ここから向かうべき先は、次の問いの方向ではありましょう。すなわち:

    • 【Q】脱構築と二次の観察は、どのような点で比較できるのか。どのような比較をすると楽しいのか

残念ながら、私の側では「脱構築」について積極的に吟味してみる準備はありませんし、今後そうした時間をとる予定もありません。したがって、【Q】を自分の問いとしてみようという気はないのですが、目下の議論のためにどうしても必要である筈なのに 今までのところ登場していない理論パーツ(概念)があることは気になっています。(特に、「言及」と「出来事」が登場していないのは致命的であるように、私には思われます。)


そんなわけで。以下、

    • [A]いただいた返答によってクリアになった点を踏まえつつ、
    • [B]「言及」と「出来事」という概念を導入して敷衍する事によって、
    • [C]〈脱構築/二次の観察〉という比較の準備への寄与を、ルーマン(のターミノロジーのほうから試みてみる

というほどのことを、あまりコストをかけずにすむ範囲で、少しやってみましょう。



[A] 【引用7】/[Q3]について:
 [Q3]は、二次の観察においては、一次の観察の用いる区別は流動化されるが、二次の観察の用いる区別は流動化されないといえるのかどうか、いえるとすればどういう意味でなのか、という問いでした。丁寧なお答えをいただき、Mさんが 言わんと-すること はかなりクリアに理解できたと思います。しかし、そこで示されたことは、「二次の観察は流動化されない」と表現できる事態ではありません。そうではなくて、それはルーマンの謂う、

    • 観察に用いられる区別の使用とその区別への言及を、いちどにはできない

というテーゼのパラフレーズになっているだけですよね。


●「流動化されない」という表現をまずは認めてみたとしても、それは「一次の観察」にも「二次の観察」にも「三次の観察」にも(以下略)言えることなのですから、そのつどの観察を、そのつど流動化することはできない といった表現をとれば済むことです。
●そして──残念ながらやはり──、「流動化」という言葉が(何が流動化されるのかが)不明確なので、この言明には賛成も反対もできません。

●さらにここに「出来事」というトピックを加えると、「その都度用いられる区別」に対してこの言葉を使うことは、拒絶するしかなくなります。その点については次項以下にて。
別のレベルの事態になら、使うことができるかもしれませんが。


[B] まずは前エントリで焦点化された「同一性」から──〈同一性/統一性〉という区別から──始めましょう。

この区別についても、下記βの命令=格律にしたがって「作動に差し戻す形で」考えることができるように、ターミノロジーを整理することが必要です。そして、ここで「言及」(〈使用/言及〉という区別)が議論に導入できます。

これは、まずは「言葉の(使い方の)問題」なので、さしあたって──〈使用/言及〉に関係づけたかたちで──「使いかた」に慣れていただくしかありません。


4つの区別──〈指示/区別〉、〈一次の観察/二次の観察〉、〈使用/言及〉、〈同一性/統一性〉は──、次のように使います

これは「約束=取り決め」です。最終的にこのやり方に従うかどうかは読者の側にまかされていますが、ルーマンの議論を検討しようとするときは、承認/否認の如何にかかわらず、これを踏まえることまではしなければなりません。
ちなみに、「指示・言及されるアイデンティカルなもの」の同一性と、「同一性のカテゴリカルな使用」とは、相当に異なった事態です(すでに、たとえばフッサールが『論理学諸研究』や『デカルト省察』などで詳細に分析してみせてくれたように)。 この場面で扱われるのは前者の方ですが、「同一性」という言葉を使ってしまうと、どちらの議論をしているのかが分かりにくいので、ここでは以下、「或るもの」という言い換えも使ってみます。


■一次の観察においては:

  • 或るものが指示される。[→同一性への指示。]

■二次の観察においては:

  • 一次の観察における「或るものへの指示f」には、地平f が伴われることに言及できる。
    [→「指示とは区別である」と言われているのはこの事態であり、これは二次の観察からの言明です。 →区別の統一性。]
  • 〜或るもの-の-指示f には 地平f が伴われる。[→統一。]
  • 〜指示f-と-地平f を、当の指示f が、同時に指示することはできない。[→それは「与えられる」((c) フッサール)だけ。]

これをわかりにくく言い換えると:

  • 「二次の観察」からみた「一次の観察」において、その指示とは区別である。そこにおいて、
    • 「同一性」は、「指示〜言及」される。
    • 「統一性」は、「使用」される。(が、指示〜言及できない。)

ということになります。

以上の議論で、「指示」と「言及」をほぼ重ねあわせて使っていますが、これでよいのかどうか、ちょっと自信が持てません。この点については、あとでテクストを確認してみることにします。
【追記】20050604 11:52
2章を読み直してみましたが。この著作では〈使用/言及〉という概念は、このペアでは出てきてませんでした。〈使用/言及〉はルーマン自身のテクニカルタームではない、ということかも知れません。が、3つの概念は「指示とは区別を使用すること」という形で結びつけられて使われてはいるので、いずれにしても、上記の言葉の使い方のまとめには修正の必要はないようです。


次に「出来事」について。
こちらについては、どこから議論を始めるべきか難しいところではありますが、困ったときは「お約束」の確認から始めるのが一番です。そこでまず、「システム論のお約束」を掲示するところから始めましょう。(これによって「出来事」概念が導入できます。)

  • 【α)ウアドクサ】 システムの作動は区別という出来事である
  • 【β)命令=格律】 事柄をシステムの作動に差し戻して記述せよ

この二つを承認するかどうかは、読者の側にまかされていますが、ルーマンの議論を検討しようとするときは、承認/否認の如何にかかわらず、これらを踏まえることまではしなければなりません。

そうしないと、そもそもルーマンが何を言っているのかが分からないはずですがw。


さて。
いま問題になっている場面に関連するαの帰結を挙げておくと:

■出来事は、生じたらすぐに消え去ってしまう。したがって、

  • 1)指示される〈(おなじ)或るもの〉とは、指示(=区別)の反復──時-空を隔てて繰り返し指示(=区別)すること──(の効果*)である。
* 沈澱((c) フッサール)or 圧縮((c) スペンサー=ブラウン)

また、こうも言えます:

■出来事は、生じたらすぐに消え去ってしまう。したがって、

  • 2-1)「流動的」とか「固定的」とかいう言葉を、区別(という出来事)に使うことはできない。
  • 2-2)「〈同一性〉を書き換える」という言葉を、区別(という出来事)に使うことはできない。


概念の「導入(=言葉の使い方のまとめと練習)」はここまでにしておいて。


[C] 以上の簡単な整理からだけでもいえそうな、──Mさんの〈デリダルーマン〉の比較に、ルーマン(のターミノロジーの側からアクセスしようとする際に──可能な推察をまとめておきましょう:

「〈同一性〉の書き換え」(とか「流動的/固定的」とか)について語りうるのは、出来事の──時-空を隔てた──接続の水準に焦点をあわせたときではないだろうか。
つまり、「書き換え」とか(とか「流動的/固定的」とか)とかいうのは(それぞれ)出来事の或る仕方での接続──出来事の接続のありかた、出来事がどんなふうに接続しているか──について語っている言葉ではないか?


このエントリは以上です。
この推察が正しいかどうかの吟味も含め、Mさんが、以上のルーマンの議論──というよりは「言葉の使い方」──と、脱構築におけるどのような側面(というか、言葉の使い方)とを比較しようとしているのかについて、コメントをいただければと思います。