mixi へのエントリで、私はこんなことを書いたわけですが:
私自身は、〈一次の観察/二次の観察〉をめぐる議論を、「盲点」や「ありそうになさ」というトピックに焦点化させてゆくやりかたに反対する「立場」を採っている
と。
これについて、いまのところまだ敷衍していません。私自身としては、
こちらのほうを優先したい気もするのですが、いままでのところ論点不明確なまま議論が進んでいる──ように私にはみえる──なかで、「論点の明確化」と「私の見解の提示」の双方を行うのは負担が高すぎます。後者については、──可能であれば、ですが──別建てて提示させていただく事にしましょう。
さて。
私が知りたかった事は、「Mさんが、脱構築と二次の観察をどのような点で比較しようとしているのか」ということでした。(今も依然として。) そして、ここから向かうべき先は、次の問いの方向ではありましょう。すなわち:
-
- 【Q】脱構築と二次の観察は、どのような点で比較できるのか。どのような比較をすると楽しいのか
残念ながら、私の側では「脱構築」について積極的に吟味してみる準備はありませんし、今後そうした時間をとる予定もありません。したがって、【Q】を自分の問いとしてみようという気はないのですが、目下の議論のためにどうしても必要である筈なのに 今までのところ登場していない理論パーツ(概念)があることは気になっています。(特に、「言及」と「出来事」が登場していないのは致命的であるように、私には思われます。)
そんなわけで。以下、
というほどのことを、あまりコストをかけずにすむ範囲で、少しやってみましょう。
[A] 【引用7】/[Q3]について:
[Q3]は、
二次の観察においては、一次の観察の用いる区別は流動化されるが、二次の観察の用いる区別は流動化されないといえるのかどうか、いえるとすればどういう意味でなのか、という問いでした。丁寧なお答えをいただき、Mさんが 言わんと-すること はかなりクリアに理解できたと思います。しかし、そこで示されたことは、「二次の観察は流動化されない」と表現できる事態ではありません。そうではなくて、それはルーマンの謂う、
-
- 観察に用いられる区別の使用とその区別への言及を、いちどにはできない
というテーゼのパラフレーズになっているだけですよね。
●「流動化されない」という表現をまずは認めてみたとしても、それは「一次の観察」にも「二次の観察」にも「三次の観察」にも(以下略)言えることなのですから、そのつどの観察を、そのつど流動化することはできない
といった表現をとれば済むことです。
●そして──残念ながらやはり──、「流動化」という言葉が(何が流動化されるのかが)不明確なので、この言明には賛成も反対もできません。
[B] まずは前エントリで焦点化された「同一性」から──〈同一性/統一性〉という区別から──始めましょう。
これは、まずは「言葉の(使い方の)問題」なので、さしあたって──〈使用/言及〉に関係づけたかたちで──「使いかた」に慣れていただくしかありません。
4つの区別──〈指示/区別〉、〈一次の観察/二次の観察〉、〈使用/言及〉、〈同一性/統一性〉は──、次のように使います。
■一次の観察においては:
- 或るものが指示される。[→同一性への指示。]
■二次の観察においては:
- 一次の観察における「或るものへの指示f」には、地平f が伴われることに言及できる。
[→「指示とは区別である」と言われているのはこの事態であり、これは二次の観察からの言明です。 →区別の統一性。]
- 〜或るもの-の-指示f には 地平f が伴われる。[→統一。]
- 〜指示f-と-地平f を、当の指示f が、同時に指示することはできない。[→それは「与えられる」((c) フッサール)だけ。]
これをわかりにくく言い換えると:
- 「二次の観察」からみた「一次の観察」において、その指示とは区別である。そこにおいて、
- 「同一性」は、「指示〜言及」される。
- 「統一性」は、「使用」される。(が、指示〜言及できない。)
ということになります。
次に「出来事」について。
こちらについては、どこから議論を始めるべきか難しいところではありますが、困ったときは「お約束」の確認から始めるのが一番です。そこでまず、「システム論のお約束」を掲示するところから始めましょう。(これによって「出来事」概念が導入できます。)
- 【α)ウアドクサ】 システムの作動は区別という出来事である
- 【β)命令=格律】 事柄をシステムの作動に差し戻して記述せよ
この二つを承認するかどうかは、読者の側にまかされていますが、ルーマンの議論を検討しようとするときは、承認/否認の如何にかかわらず、これらを踏まえることまではしなければなりません。
さて。
いま問題になっている場面に関連するαの帰結を挙げておくと:
■出来事は、生じたらすぐに消え去ってしまう。したがって、
- 1)指示される〈(おなじ)或るもの〉とは、指示(=区別)の反復──時-空を隔てて繰り返し指示(=区別)すること──(の効果*)である。
* 沈澱((c) フッサール)or 圧縮((c) スペンサー=ブラウン)
また、こうも言えます:
■出来事は、生じたらすぐに消え去ってしまう。したがって、
- 2-1)「流動的」とか「固定的」とかいう言葉を、区別(という出来事)に使うことはできない。
- 2-2)「〈同一性〉を書き換える」という言葉を、区別(という出来事)に使うことはできない。
概念の「導入(=言葉の使い方のまとめと練習)」はここまでにしておいて。
[C] 以上の簡単な整理からだけでもいえそうな、──Mさんの〈デリダ/ルーマン〉の比較に、ルーマン(のターミノロジー)の側からアクセスしようとする際に──可能な推察をまとめておきましょう:
「〈同一性〉の書き換え」(とか「流動的/固定的」とか)について語りうるのは、出来事の──時-空を隔てた──接続の水準に焦点をあわせたときではないだろうか。
つまり、「書き換え」とか(とか「流動的/固定的」とか)とかいうのは(それぞれ)、出来事の或る仕方での接続──出来事の接続のありかた、出来事がどんなふうに接続しているか──について語っている言葉ではないか?
このエントリは以上です。
この推察が正しいかどうかの吟味も含め、Mさんが、以上のルーマンの議論──というよりは「言葉の使い方」──と、脱構築におけるどのような側面(というか、言葉の使い方)とを比較しようとしているのかについて、コメントをいただければと思います。