涜書:ルーマン『社会の社会』

読書会@西荻窪

Die Gesellschaft der Gesellschaft

Die Gesellschaft der Gesellschaft

一章4「システムと環境」。19段落まで。
延々と形式的な話。つらい。(というか、みんなつらかったんじゃ....?)




こんなルーマンはいやだ(GdG chap.01§04編)

  • 序文で「社会学のやってるのは説明なんかじゃない」(大意)といっておきながら、その舌の根も乾かぬ1章四節では みずからの記述を「説明」の語彙で語ってしまうルーマン
      • 「システムはいつも、説明項でありながら同時に被説明項でもある」(大意)てなことになってる記述を ふつー「説明」とは呼ばねーよ!
  • 「俺のやってるのは演繹ではなく、〈システム/環境〉区別の一般化による帰納だ」(大意)とか言うルーマン
      • 帰納」とか「演繹」とか(「説明」とか)言うな。 そもそもこんなところで「一般化」とかいうな。
        システム論は「仮説演繹法」にもとづく、とでもいうつもりか! 〈我々は「システムがある」というところから出発しよう〉という言明が「仮説の提示*」だとでもいうつもりか!?(んなわきゃーない)
  • 唐突に「システムの要素は情報だ」とか言い出すルーマン
      • 「要素の再生産には情報産出がともなわれねばならない」とかというほどの意かと思われるが、初学者はここで(ほぼ間違いなく)つまづくと思われる。


このあたりのルーマン先生のモノイイは、ほぼ「最悪のルーマン」だといえそうな。(この項 続く。)

* もしも「システムがある」という命題が 仮説=仮定なのだとすると、それはどこかの時点で証明されなければならないものだ、ということになってしまう。
では その場合の「証明」とは、いったい何をすることなのか。最終的に出てくる記述のもっともらしさによって、出発点の前提が「正当化」される、とでもいうのか。
そのような議論の構えをとりながら語るひとが少なからずいる、ということはあるけどなw。──だめ押しで付け加えておくと;もしもそのように考えるのだとしたら、
では、その「もっともらしさ」は 何を以て・どうやって測るというのか。