読書会@西荻窪。
Die Gesellschaft der Gesellschaft
- 作者: Niklas Luhmann
- 出版社/メーカー: Suhrkamp Verlag KG
- 発売日: 1997/05
- メディア: ハードカバー
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延々と形式的な話。つらい。(というか、みんなつらかったんじゃ....?)
こんなルーマンはいやだ(GdG chap.01§04編)
- 序文で「社会学のやってるのは説明なんかじゃない」(大意)といっておきながら、その舌の根も乾かぬ1章四節では みずからの記述を「説明」の語彙で語ってしまうルーマン。
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- 「システムはいつも、説明項でありながら同時に被説明項でもある」(大意)てなことになってる記述を ふつー「説明」とは呼ばねーよ!
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- 「俺のやってるのは演繹ではなく、〈システム/環境〉区別の一般化による帰納だ」(大意)とか言うルーマン。
- 唐突に「システムの要素は情報だ」とか言い出すルーマン。
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- 「要素の再生産には情報産出がともなわれねばならない」とかというほどの意かと思われるが、初学者はここで(ほぼ間違いなく)つまづくと思われる。
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このあたりのルーマン先生のモノイイは、ほぼ「最悪のルーマン」だといえそうな。(この項 続く。)
* もしも「システムがある」という命題が 仮説=仮定なのだとすると、それはどこかの時点で証明されなければならないものだ、ということになってしまう。
では その場合の「証明」とは、いったい何をすることなのか。最終的に出てくる記述のもっともらしさによって、出発点の前提が「正当化」される、とでもいうのか。
そのような議論の構えをとりながら語るひとが少なからずいる、ということはあるけどなw。──だめ押しで付け加えておくと;もしもそのように考えるのだとしたら、
では、その「もっともらしさ」は 何を以て・どうやって測るというのか。