沼上『行為の経営学』

夕食。

行為の経営学―経営学における意図せざる結果の探究

行為の経営学―経営学における意図せざる結果の探究

  • 第1章 問題意識
    • 1.経営学における対話不可能状態
      • (1) 変数システムという立場
      • (2) 変数システムという立場の具体例
      • (3) 主観主義的立場──意味・解釈の重視──
      • (4) 対話不可能状態
    • 2.経営学における〈意図せざる結果〉の探求
      • (1) 〈意図せざる結果〉
      • (2) 組織環境の定義
    • 3.本書の構成
  • 第2章 2つの環境観──〈行為のシステム〉と〈環境のシステム〉──
    • 1.はじめに──ふたつの理念型──
    • 2.〈行為のシステム〉としての環境記述
    • 3.〈変数のシステム〉としての環境記述
      • (1) ダントン──知覚された不確実性──
      • (2) アストン研究
    • 4.経営戦略論における行為システム記述と変数記述
      • (1) 変数システム記述──ポーターの業界の構造分析──
      • (2) 行為システム記述──シナリオ分析──
    • 5.行為システム記述から変数システム記述へ
      • (1) 支配的な環境記述様式の変遷
      • (2) 正統派に見られる行為システム記述
      • (3) 変数システム記述の進展
      • (4) 反正統派としての行為システム記述
    • 6.要約

これはきつい...。正直なにいってるかさぱーりわからん。
 たとえば著者が、〈被覆法則的説明/メカニズムによる説明〉ペアを〈変数システム/行為システム〉ペアに等値しているのはわかる。しかし「どういう理由によって等値されているのか」というのがわからない。言いかえると、〈行為システム〉なるものが、どうしてその名でもってそう呼ばれるのかが分からない。
もう一歩下がって別のいい方をすると。
書きっぷりをみるに、おそらく著者のひとは、

  • a)学的観察者が〈意図〉を取り上げた場合、そこでは〈行為〉が問題となっている

とか、また逆に

  • b)〈行為〉を扱うには、〈意図〉──や「〈意図〉せざる結果」──を取り上げればよい

などなどという前提をもっているのだと思う(だから、著者は「まさにこれ↑が“理由”だ」というかもしれない)。 私にわからないのは、著者がなぜそういう前提を置くのか ということであり、またそういう前提を置いたうえで〈行為システム〉なるものについて語ることは いったい何をした(/言った)ことになるのか、ということなのであった。

このわからなさ、議論の見通しの利かなさは、『パーソンズ=シュッツ論争』のそれによく似ているが、──まだ2章しか読んでいないので、決めつけるわけにはいかないけど──「似ている」だけでは済まない可能性がある。
『論争』の場合に問題になっていたのは──〈意図〉ではなく──〈動機〉のほうだが、しかし「行為」「行為」と連呼しながら、結局その名で以て(双方の側で)何が語られているのかは(双方ともに)最後まで さぱーりわからない、という点が「似ている」。
そしてこれまでのところの書きっぷりをみると、おそらくは、著者にとってabは 説明不要な自明の事柄なのだろう。だから これ以上の敷衍も期待できない(っぽい)。 いや、決めつけてはいかんが。



いずれにしてもこの議論は、大枠で、──以前 ダッハーマ氏に教えていただいた*──クルーグマンのエッセイ「経済学者は進化理論家から何を学べるだろうか」の構図にすっぽりと嵌っているように思う(「被覆モデル的・変数モデル的」のほうが通常の均衡論的議論に、「メカニズム的・行為論的」が「進化経済学的」のほうに、それぞれ相当する)
そして──予想するに──、これ以降の著作のストーリーは、この図式から一歩も出ずに

  1. 経営学の主流は「変数-被覆法則-モデル」だが、経営学には「行為-メカニズム-モデル」も必要であり(!)、
  2. 実際に、経営学者は「無自覚に」どちらも使っているが、
  3. 方法論的に「自覚的に」、双方を相補的に用いることが必要だ

という主要主張のもとで、その「自覚的に」の部分を明示化するのがこの著作の課題だ、ということになるっぽい。(が、だとしたら先を読むのはかなりキツいなぁ。この予想ができるだけ裏切られることを期待したいところ。) [→違った。次のエントリを参照のこと。]


とか考えつつうしろのほうをパラパラめくっていたら、中盤部分に「簡略版コールマンボート」みたいな図が載っていて**先を読むのがまたつらく感じられたわけだが。(そして、この簡易ボートの 底[→行為]から上[→マクロ変数]にあがるには、学的観察者による「解釈と合成」が必要らしい。‥‥見事な「二次理論」図式であります。)

* http://d.hatena.ne.jp/contractio/20050324#p2
** 参照文献にコールマンの名は挙がっていない。