社会学者のお仕事とは(50年代北米標準)

等価機能主義=臨床社会学

あくまで「50年代北米標準」です。念のため。



グールドナー先生、『産業官僚制のパターン』第13章「結論」にて曰く:

 ロバート・マートンの所見によれば、現存する社会的必要性を満足させるための、種々な選択可能な方法を考察しないことは、既存の社会的パターンに対する、暗黙の・是認すべからざる帰依を結果するという。この健全な指針から、すくなくとも二つのはっきりと区別される意味を引き出すことが可能である。すなわち、

  • (1) 所与の社会的パターンを機能的に評価したならば、そのあとで同一の社会的必要性に供することが可能な代替方策がありうることを一般的に示す必要がある。
  • (2) さらに、それを超えて、同様な機能を果たすことができる特殊な代替案が示されるべきである。

この[石膏採掘&加工工場に関する]調査は、第二の推論によって導かれてきた。政策上の選択可能な案を、思索によってではなく、経験的な探索と、既存の機能的に同一なパターンの記述によって、倍増する努力を行った。
 社会学者は、医学の専門家の作業上の考え方に、自分たちの先達を求めることができると思われる。実際問題として彼らは、〈健康〉〈正常〉という言葉の学問的な定義や、人間の不可避的な不完全さについて敬虔な宣言をすることにエネルギーを費やすことをめったにしない。彼らは病気の削減に意を用いる。すなわち、彼らは人々を完全にするというよりも、病気にならないようにする。同様に、いずれにせよめったに見出すことができない概念であるユートピア的民主制の概念によってはぐくまれた危険性に対する警告を発する代わりに、官僚制が〈不可避〉であるか否かの問題に自分自身の関心を寄せつけるのではなく、官僚制の量やタイプの際を生み出す社会過程を判別することに取り組むことが、より建設的であると思われる。なぜなら、この種の差異は、人間の生活にとって決定的な差異を生み出すからである。この道を踏んでいくと、社会学者は、機が熟さずして人間の希望を葬り去ることに熱心な葬儀屋の役割を受け持つことを退け、民主的な潜勢力にあらかじめ限界を一方的に設定するのではなく、それをさらに伸ばすべく努力する社会治療者としての責任を担えるだろう。[p.274]

なお、この時代のひとたちが「パターン」と「制度」という語を ほぼ互換的に使用していることに注意。

「序論」に同趣旨の発言あり:http://d.hatena.ne.jp/contractio/19540101





以上、

社会学は──コチーク主義を経たあと──医療技術者メタファーの自己適用に 先祖帰り=退行 しました

というまとめで。