涜書:上野本

夕食。俺がいちからコチークを勉強するスレ。俺コチ。

構築主義とは何か

構築主義とは何か

まで。
第3章は なにが書いてあるのかさっぱりわけわからず。轟沈。



あと千田論文を再読。
この↓(不思議なたいへんに興味深い)クレイムがどうやってなりたっているのかを(誰かが)考えてみると面白いと思う:

社会の実在性という問題

 スペクターとキツセによる構築主義は、一九六〇年代に逸脱研究において盛んであったラベリング論を、さらに推し進めたものである。ラベリング論とは、逸脱の原因を、逸脱者の側にではなく、「逸脱者」というラベルを恣意的に張りつけるひとびとの側に求めるものである。これは意味のある転換だったが、ある行動に人びとが恣意的に「逸脱」というラベルをはること(一次的逸脱)により、逸脱者が逸脱者としてのアイデンティティを獲得し、二次的な逸脱をおこなうというように、ラベリング理論は、逸脱の原因を逸脱者へのサンクションに求め、逸脱行動やその原因を、実体視してしまった。このためラベリング理論は、逸脱行動の真の原因は、逸脱者へのサンクションと社会的環境やパーソナリティのいずれなのかという原因論実証主義に引きこまれることになっていった。スペクターとキツセは、こうした相互作用論の伝統を批判的に継承し、エスノメソドロジーの、「客観的」な状況を不問にふし、人びとの相互作用の方法を問いなおすという方法論を加味する。そして、社会問題の構築のありかたそのものを焦点化させたのである。つまり社会問題の「実在」論を拒否するかたちで、逸脱論をより洗練したと言ってもいい。


 したがって、社会問題がそもそも「実在」するのかという問題が、この脈絡では重要な問題となる。この社会問題の「実在性」をめぐって提出されたのが、ウルガーとポーラッチによる「オントロジカル・ゲリマンダリングontological gerrymandering」(OG)問題である。構築主義アプローチは、社会問題の「活動」に焦点をあて、「状態」についての判断を不問にふすといいながら、暗黙のうちに「状態」の想定をおこなっているのではないか、つまりある「状態」は不変であるにもかかわらず、社会問題が「構築」されたとの判断を恣意的におこなっているのではないか、また研究者の役割は「活動」の記述に専念することだとしても、研究者の活動自体も構築活動であり、ある状態や行動、それにかんする定義やクレイムを同定してしまっているのではないか、という疑問が提出されたのである(Woolgar and Pawluch [1985])

 このOG間題にたいする対応をめぐって、

  • 客観的現実の想定をまったくおこなわない「厳格派」、
  • 客観的現実について節度ある想定をおこない、クレイム申し立て活動を社会的なコンテクストのなかに位置づける「コンテクスト派」、
  • さらにポスト構造主義の影響下で、研究者/メンバーといった、二項対立を内部から脱構築していこうという「脱構築派」

に分裂していく(詳しくは、Holstein and Miller eds. [1993]、中河 [1999] などを参照のこと。この論争についての解説はおおくあるので、ここでは深く立ち入らない)。これら社会の「実在」をめぐる論争は、社会問題の構築主義の問題設定から、必然的に導き出されたものであるともいえる。つまりラベリング論が本来的にもっていた客観主義的な性格と、エスノメソドロジーがもっていた構成主義的な性格を統合しようとすることによって引きおこされた対立であると考えることもできる。社会問題についての構築主義は、これら方法論をめぐる論争とともに、さまざまな社会問題のケース分析も積み重ねられていった。[p.22-23]

こうした「まとめ」が可能になるには、たとえば〈客観的(/主観的)〉とか〈実在(/仮象〉とか〈存在(/非在)〉という区別が、あらかじめ、主導的区別として──言いかえると、ほかのナニゴトよりも大事な区別として──前提とされていなければならない。
では、そもそもその区別を導入したのは誰なのか。スペクター&キツセなのか? ウルガー&ポーラッチなのか? それともほかの誰かなのか?