べつの探し物をしていたら数年ぶりに見つかって(読んで)しまった。
これはやはり名著ですな。

- 作者: 西阪仰
- 出版社/メーカー: 金子書房
- 発売日: 1997/04
- メディア: 単行本
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私は、「システム」とか「オートポイエーシス」とか「作動的閉鎖」とか「機能分化」とかといった類いのドキュン・ワード的ルーマニ屋ジャーゴン──わたしが謂う所の*1「DQNアトラクター」たち──の(引用以外での)使用を 自らに対して 禁じているが、私の想像力を遥かに超える危機的な事態が私を見舞い どうしても使わざるを得ない(そうしないと死ぬ)というような窮地に追い込まれたときには、これ↓を「典拠」として使うだろう。──という箇所:
1章 相互行為分析という方法 2節 社会秩序の局所的な達成
社会秩序は、相互行為内のふるまいが、さまざまなことがらを観察可能にしながら次々に接合されていく、そのしかたのうちにある。相互行為の進行は、たんに物理的な時間空間への出来事の(偶然的な)配置としてあるのではない。
- それは、ふるまいがそのつど観察可能にされる意味もしくは理由説明(アカウント)によって貼り合わされていくところに、成立する。
- しかも、その観察可能にするという操作は、それ自体相互行為内の具体的ふるまいによって担われている。
- と同時に、ふるまいは、この操作によって他のふるまいに接合されるときはじめて、その相互行為内のふるまいになるのだ。
相互行為の進行は、そのかぎりで、操作的に閉じたシステムをつくっている。このような操作的に閉じたシステムにおいて、そのつどその操作がおこる場所を指して、「局所」と呼ぶことにしたい。そのつどのシステムの全域はいわば局所的な操作の「パッチワーク」として達成される(Lynch、1993*参照)。
ところで、いま[=章冒頭の事例]は電話での会話が、ここでの当該システムとなっている。しかし、そのつどの「当該」システムの境界は、たとえば、電話をかけてから電話を切るまで、というふうに、機械的に決まるものではない。それはあくまでも、そのつど観察可能にするという操作によって「局所的」に達成されるほかない。したがって、当該システムが、会話、あるいはいわゆる「対面的」相互行為でなければならない理由はない。[p.42-3]
私はここで、なにも、そのつどの当該場面設定を「超えた」と通常いわれることがら(歴史的・社会的背景、いわゆる社会のマクロ・レベルにかかわることがら、など)の存在を、否定しようと言うわけではない。ただ、そのようなことがらも、「局所的」に彫琢され、「局所的」な組織化をとおして、あるいはかかる組織化として、現実的(リアル)なものとして達成されるほかはない、というのが、わたしが本書を通じて主張したい基本的な論点である。[p.46]
ここは、EMの基本的な主張──そしてこの著作の課題──が手短に書きとめられている という点で まずは、重要な箇所である。
しかしここはまた、ルーマニ屋にとっては 特別に・ことさらにはげしく・決定的に・死ぬほど 重大な箇所である。なにしろここで御大は、エスノメソドロジーの基本的主張を、なんと こともあろうにルーマニ屋ジャーゴンで定式化している(!)のであり、そしてまさにそうすることによって、その主張が 同時に(ルーマンが謂う意味での)「オート■イエーシス」の規定を すっかり満たしていることを──ほとんど明示的に、と言ってかまわないだろう仕方で──述べているのだった。
このことは複数の仕方で重要な意味を持つ。
- まず、著者がEM界の重鎮だ、ということがある。「ルーマン -と- EM」という並記は、EM者とルーマニ屋双方の側で不評を買いうるものだが、すくなくともEM者側には「しかしきみらの重鎮がこう↑言っているではないか」とカマすことができる。これで、とりあえず相手をしてもらえる可能性はグッと高まるだろう(.....だといいな。とりあえず今のところ、わたしに関してのみ言えば、「相手をして貰える度」は日を追って増大している、と思う、と 日記には書いておく)。
- そしてまた、定式がルーマニ屋ジャーゴンで行われていることにより、ルーマニ屋は、この箇所を強力な指針として、EMジャーゴンのルーマニ屋語翻訳にとりかかることができる。
というか重要なので銘記しておこう:
- EM者が例を挙げながら「局所的な秩序」について語るとき、そこで彼/女たちは、
「どのように作動的閉鎖が生じているのか」ということの具体的な例解を通じて、
読者に「それはどのような〈システム〉なのか」を理解させようとしているのである。そしてこの具体的な例示的解明(=例証)こそが、ルーマニ屋がほとんどまったくといってよいほどやらないものそしてまずはまさにそのことによって、ルーマニ屋とEM者のスタンスを、はっきりとした仕方で──しかし(方針に直接由来するわけではないという意味で)外在的な仕方で──分かつものなのである。
だ・か・ら、ほとんどのルーマニ屋は、「自分たちが〈システム〉と呼ぶ当のその対象は、しかしどうやったら記述できるのか」について、知らない。そして/にもかかわらず彼/女たちは〈システム〉(なるもの)について平気で語る=騙るのだ。これは恐るべきことである‥‥とわたしはおもう(が あなたどう思うか)。 - そして最後に、この本自体がEMの書として、そして社会学の書として、たいへんな名著である、ということがある。ルーマニ屋は、上記の「首尾一貫したやりかた」で作業を進めることでもって、この本から多大な恩恵を受けることができる。──というわけだ。
- 否。さらに最後に──
現状、ルーマニ屋のごく少数が「ルーマンの遺産をどう運用したものか....」と考え、さらにごく少数が「しかも経験的な学としての社会学において、ルーマンの遺産をどう運用したものか」と悩んでいるわけだが、
この本を読めば、「作動的閉鎖」というルーマニ屋にとってもっともコアな着想を共有しながら、しかしEM者は遥か先を走っている、というそのことに気づいて愕然とすることができる。これがもっとも重要なことかもしれない。
この覆いようも無い距離の差をちょっとでも埋めようと思うなら、「社会学 v.s ルーマン」とか
いった(偉そうな)対立軸でものを考えていてはいけない。だってルーマニ屋は、そもそもまだEMと同じ土俵に上がれてすらないんだから。そのことにまずは驚くべきなのであって、だからルーマニ屋には「独りで」悩んでる暇などない。‥‥と私は思うけどね。(あなたどう思うか。)
今更ながら、ルーマニ屋必読書として強力に推薦する次第。
みんな(特に若い人)、もっとまじめに焦ろうよ。>ルーマニ屋
というか悩まなくてもいいよ。その暇があるならEMも勉強しよう。(>特に若い人)
「〈オートポイエティック・システム〉の記述の作法」は、彼らが教えてくれる──そして、ルーマンは教えてくれない──よ。
【追記】2006/11/21
こんな論文もあった。
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20061121/1164087365
*1:©西田、宮台 et al.