「個別の文脈とは別個」に理解される【意味】とは、どういうものでしょう。
それは、ふつう「本質」と呼ばれるものではないかしら。
つまり、「a、bそれぞれの文脈とは別個」の(=別の)特定の文脈cのもとで理解される【意味】*、ということ。そして ‥‥それだけの話。
【追記】20060315 02:25
ちょっとわかってきた。
[‥]規範の立ち上がりをカテゴリー化実践の中に求めることになるだろう。そのときエスノメソドロジーは自家撞着あるいは循環論法に陥ることになる。
[‥]
エスノが捉えるべき事態は、まさにこの循環論法の中にあるというべきであろう。すなわち、ある行為が「逸脱」であるという理解と、「逸脱」の背後にある規範が<同時に>立ち上がってくる事態である。
ここまでは「よい」 ‥‥としよう。問題は次の箇所:
そしてもしこの同時性を突き詰めるのであれば、「カテゴリー化の適切性」に関する問い(γ'[=「あるカテゴリー化を適切なものにする手続きとはいかなるものか」])も消去されなければならない。
そうではない。
循環性を──言いかえると「構成的関係」を──「突き詰める」ためにこそ、ほかでもなくまさに〈手続き〉に注目することが要請されるのである。これが一点目。
もうひとつ重要なことがある。一方では、著者のひとのいう「捉えるべき事態は、まさにこの循環論法の中にある」という主張は、おそらくは、この点についてはEMに「共感的」なものとして、つまり自分自身もコミットすべきタスクとして言明されているように読める。しかし──もしもこの推察が正しいとすると、しかし──他方では、次の箇所を読むと、著者のひとは、そのタスクをあっさりと、──次のシンプルなロジックによって──投げ捨てていることがわかる:
あるカテゴリー化を支えるいかなる根拠も事前には存在せず、したがってそれを問うことは徒労に終わる。
この主張のもとで。成員の〈手続き〉は、「〈根拠〉に類似のなにか」だと看做されたあげくに、棄却されることになる。そして、一緒に上記のタスクもあっさりと捨てられている。
だから?
‥‥EMは──あいかわらず──この「循環性」を「突き詰める」作業に従事するが、著者のひとは──そうはせずに──「別のこと」に従事することになる。このように:
われわれはいまや、言説を個別の文脈から切り離さなければならない。そのもとでは語りの適切性はもはや問われない。
成員も語りの外部には存在しない。そして語りの反復だけが議論の遡上に載せられることになる。[‥] 訴えかけられている対象は「私」=読み手である。そしてこの読み手は語り手の知らない読み手なのである。
なるほど確かに。このやり方では「循環関係」を経験的なやりかたで「突き詰める」ことはできないだろう。問は、もはや問われない=問えない。