井出草平さん曰く:
[社会学]社会問題の構築
佐藤俊樹氏によるコメント。
いいかえれば、言説分析的であるかどうかは、それが接続をかけている言説群で通常とられている「誰か」からどの程度引き剥がせているかどうかだと私は考えています。それはさらにいいかえると、言説分析的であるかどうかが「抵抗」によって測られるということですが。
id:contractio:20060524#c良いコメントだ。
社会学の研究を社会に対する社会的行為なのだと捉えない学徒は多い。学問の客観性を根拠に責任の罷免を望んでいるのだろうが、保証されるのは「価値からの自由」に過ぎない。「価値への自由」を手に入れるためには、研究は社会的行為であるということ、そしてその社会的行為によって、社会問題の構築がなされ得る、ということを理解(もしくは自身の行為の分析)をしておく必要があろう。
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おそらく、佐藤さんのコメントに対する私のエントリid:contractio:20060602#p1 / id:contractio:20060603#p1 は読んでおられないと思うので、私がコメントを投げるところかどうか迷いもあるのですが、──私が佐藤さんの見解に異論を投げた手前──、大まかには〈賛成/反対〉の構図に位置を採る事になってしまってはいます。てことで、ちょっとだけ反応コメントを。
とりあえず、
社会学の研究を社会に対する社会的行為なのだと捉えない学徒は多い。
という時点で──つまり出発点から──、私の認識とはずいぶんと違う*のですが、そこは争わないでおくとして。一つのコメントと一つの質問を。
井出さんはどうやら、佐藤さんの解説的見解を「研究が社会的行為であることを指摘したもの」
であると理解したうえで、それに対して──「そう。反省って大事だよね♪」
、と──「賛成」しておられるようなのですが。佐藤さんのコメント=解説は、「言説分析とはどんなことをすることか」について語ったものなので──その点で大ざっぱには「それは行為である」とは謂われているのかもしれませんが、しかし──そこで別に「研究は行為か否か」が争点=焦点になっているわけではないですよね。なので、上記コメントはちょっとピントを外しちゃってるとおもいます。これが一点。
「学問の客観性を根拠に責任の罷免を望んでいるのだろう」という推論の前提には、「社会的行為は-責任を-免れない」という見解があると考えられます。では、ここで問題になっているのは「どんな**」責任なのでしょうか。
** 上記の文章を適切に読むには、読者の側は〈その責任は「客観性」-と-「価値」の双方にレリヴァントである〉と想定する必要がありそうですが。