長岡「数量関係・組織・意思決定・利害関心」(1979)

  • 長岡克行, 1979, 「数量関係・組織・意思決定・利害関心──ドイツ語圏経営経済学の現況の分析から」, 『東京経大学会誌』1979/12, p.153-183, 東京経済大学 編/東京経済大学

冒頭:

ドイツ語圏の経営経済学の現在[=79年]の状況を第一に特徴付けているのは、研究プログラムの著しい多様化である。いま、それらを目差されている認識の主たる対象や標榜されている科学の性質と発生の経緯にしたがって分類するなら、次の三つのグループに大別できよう。[p.153]

  • 【プログラム1】 1950年代から1960年代にわたって支配的な地位を占めてきたグーテンベルクの理論の延長上にあって、その発展を目差している研究プログラム。これは企業の諸現象の(多くの場合最適な)数量関係に関心を寄せ、自己を(純粋)経済学として位置づけている。[p.153]
    • グーテンベルク[p.158-163]: 資本の転化形態(資本運動)の 理念的記述=モデル構築。
      (生産資本-商品資本-貨幣資本 〜 生産関数-販売関数-財務関数)
  • 【プログラム2】 人間行動ないしその背後にある意思決定とその過程、そして、それら全体から構成されているシステムに焦点をあわせている研究プログラム。英語圏組織理論と呼ばれる分野で発達した理論がドイツ語圏の経営経済学に取り込まれて、第1プログラムに対する対抗プログラムとして登場。[p.173]
    • カーネギー学派の輸入: 【1】における「組織の物象化」を批判。決定前提に関する考察を介して「意思決定論-と-組織理論」の連結を図る。[p.167]
      • 難点: 「決定前提」を「決定過程の結果」として捉えようとすると議論が無限背進する。それを断ち切るために、たとえば「役割システム」の概念が導入されると、これによって「方法論的個人主義」の建前が掘り崩されてしまう。
        これ↑は「組織」の水準における難点だが、「企業」の水準でも「営利経済原理」について同じことが指摘可能。
  • 【プログラム3】 1・2の社会関連を批判ないし反省する過程をとおして形成されつつあるアプローチ。何らかの観点から利害という問題を重要視し、広義の 企業体制Unternehmensverfassung を視野に収めようとしている点に共通性がみられる。[p.154]


【2】【3】からの、【1】に対する批判。主な論点。[p.163]

  1. 組織概念が狭すぎる。
  2. 多様で多次元的な現象を不当にも経済的(数量的)関連に還元している。
  3. 「意思なき人間」の仮定。人間行動の考察が不十分。
  4. 単一の企業目標という前提。
  5. 労働を〈対象関連的労働〉と〈管理的労働〉に二分することの困難。
  6. 対象関連的労働を他の生産要素と等値している。(=人間を物として扱っている。)
  7. 被用者(と消費者)の利害の無視。→企業における利害対立の無視。→一面的な「資本増殖論」(=「資本志向的理論」)
  8. 共同決定問題が十分に顧慮されていない。
  9. 本来的な分配論がない。
  10. 形式的な合理性原理の実体化。→理論のイデオロギー的性格。
【2】が 1-6 を、【3】が 5-10 を、それぞれ批判したよ。


p.173

  • 【1】が主として企業の経済的次元における最適代替案を研究していたのに対して、
  • 【2】は、社会学的、心理学的な時限の現象を考慮することによって、企業というシステムの安定性を確保し全体としての効率を高めるための操作的代替案を解明しようとしている。
この点で、それらは[第3グループによる、「被用者の利害を十分に顧慮していない」という]イデオロギー的嫌疑」を払拭することは難しい。[‥] こうして利害と理論の社会的性格をめぐる問題が経営経済学における方法論議の中心的テーマになっていった。

■ならば【3】がよいかというと、そうでもない。p.174-178:

  • 【3】「企業の現実は、何らかの意味で「まちがった秩序」のうえに成り立っている」という判断から出発するが、「なぜそのような秩序が現実に存続しうるのか」という理由を問わない。
    • ex. 労働や労働者が「生産要素」として扱われるということは「受動的客体」として扱われるということ。そこで「人は物ではない」とだけいって批判してみても仕方がない。
  • 【3】は、【1】【2】が「被用者の利害を顧慮しない」と批判するが、彼ら自身も、それを適切に扱えているわけではない。
    • 「利害」とは、理論の中で説明されるべき問題であるのに*、彼らはそれを「定義」で済ませている。
* 「「どんな利害があるのか」ということは、それ自体、調査が必要なことだ」とか表現したほうがいいんじゃねーの?


結論的見立て── 被用者も含めたすべての「利害関係」を顧慮できるのは、実は【2】だけなのではないか:

【2】としての]経営経済学は、表面的にはすべての個別利害から等距離にあり、かつ、各個別利害の対立の中に成立する一定の共同利害の推進者として立ち現れる。しかも、実質的には、この立場は、企業内で利害調整者・共同利害の推進者の役割として現れる管理者の立場に限りなく接近してゆく。[p.179]


この見立てこそ、長岡さんがルーマンに接近し、さらにはルーマニ屋へと変貌を遂げてゆく理由になっておるわけですな。たとえば 81年の論文*では、「おなじこと」が こんな表現で語られておるわけですが:

ルーマンは、理論家が理論で規定できないものを実践に転化すると批判していた。だが、(‥)ルーマンのいう「諸実践」は、いかなる道筋をへて社会の水準での意味コンフリクトにつながりうるのか23。[‥] ルーマンの社会システム論は、今までのところ、成層的分化あるいは機能的分化の下での「コンフリクトをはらむ状態」の分析には冷淡であり**、組織の研究でも政治システムの研究でも、関心は、選択のはたらきの受容を可能にするメカニズムに集中されてきた。つまり、ルーマンの社会システム論は、[‥]コンフリクト生産の複合性を濃縮する装置に欠けている。

23 ここで、意味コンフリクトとは「相互行為の参加者が選択提案を拒否し、かつ、この拒否を伝える」場合〔isbn:3531612816,16〕をさす。したがって、それは、すべてのコミュニケーション・メディアに該当する。

 [‥] いままでのところ社会システム論には、社会システムにおいて展開される諸行為(‥)が効果として生み出す システムへの再帰的作用を把える装置が半分しかない。いいかえると、第一次的社会分化の形態は所与として前提されてしまっている。したがって、意味構造に批判的な情報の発生が、うまくとらえられていないように思われる。[p.30-31]

* 1981、「社会理論としての社会システム論とハーバマス=ルーマン論争」、『思想』1981/02、p.1-36、岩波書店
** ただし、少なくとも『社会的システムたちisbn:4769908083』が出た84年以降は、こういうことは言えなくなっているけど。


【追記】2006年8月26日
続き:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060826