http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060809#c
コメントをいただいたので、文献を確認しないでも書けるくらいのことについて簡単にメモをば。
まぁ小野さんの批判、正直なにいってっかわからんのですが。
そもそも小野さんが「システム」という言葉でなにを指しているのか──また、ルーマンがなにを指していると小野さんは考えているのか──、ぜんぜんわからない。
パーソンズ論もあるようなので、そっちも読んだほうがいいんでしょうけども。それは yutacakeくんに任せたよ。
- 「目的合理性」とか「価値合理性」とかいうのは、合理性が云々される際に使われる図式にもとづく分類。
- これに対して、ルーマンが「システムの合理性」という語で問題にしているのは──そういう事柄ではなくて──、
- 或る やりとりにおいて、
- 当のその やりとりについて、
- 当のその やりとり以外のもの(=環境)のことを鑑みて、
- そのコミュニケーションの「まともさ」「正しさ」「もっともらしさ」を 調達したり・吟味したり・それによってやりかたを変更したり ‥‥などなどといったことが──どれくらいどのように──できるか。
ということ。
- なのでここでは、「合理性」という論点は、「反省的」な やりとり に関係づけて扱われることになる*。念のためしつこく書いておくと、「反省的」というのは、「或る やりとり において・当のその やりとり について・やりとり する」というこの形式のことを謂っている。(だからここで謂う「反省する」は、心的な述語ではない。)
なお議論の運びがそうなっていることは、たとえば『社会的システムたち』の目次をみただけですぐに確認できる**。
- しかも、「まともさ」「正しさ」「もっともらしさ」の調達の仕方にはいろいろなものがあるのだから、それを扱う観察者は、それぞれのありかたに即してということはしたがって、それぞれのやり取りに即して***吟味するよう気をつけないといけない。(たとえば、「経済的にもっとも」であることと「法的にもっとも」であることは違う。それを一緒くたにして扱うのは無茶である。)
- ところで、
- 一方では、以上のように ルーマンにとって、合理性-は-反省の事柄であるという事情が、
- 他方では、批判理論にとって、「反省」はもっとも枢要なカテゴリーのひとつである、という事情が、
それぞれにある。
こういう事情があるために、この「反省」という論点が、両者が「激突」する場所のひとつとなる。 ──というくらいのまとめで。
ついでに書いておくと。
世の中には 「システム合理性」とは別に「コミュニケーション合理性」なるものを設定し、両者を対立させてあれこれ論じる人がいる。けれども、ルーマンの側からみれば──なにしろ 上記のような事情なので──こういうのは ナンセンスもいいところ、である。
* だから反省できないシステムについては、「合理性」は問題にならない。
*** ルーマンのテキストで「システム」と呼ばれているのは、こうしたやりとり(の統一性)のこと。
なお、ルーマンのテキストには「作動operation」という奇怪な術語が登場するが、これは──ヴァナキュラーな表現を使えば、要するに──「やりとり」のこと。「システムの作動」という言葉が出てきたら、すべて「やりとり」と読み替えて構わない。
奇怪な日本語(およびドイツ語)に付き合って使用する必要はありません。
その限りで、これはエスノメソドロジストの言葉遣いとも(この点では)異なっているようである。
** 『社会的システムたち』(isbn:4769907423 isbn:4769908083)。「合理性」が登場するのは、「自己参照」を扱った第11章の「反省的自己参照」の節である。(→目次)*** ルーマンのテキストで「システム」と呼ばれているのは、こうしたやりとり(の統一性)のこと。
「統一性」というのは、たとえば上で、「経済的にもっとも」であることと「法的にもっとも」であることは違うというときの、その「違い」のこと。
またここで、記述がそれに即して行われるところの「システム」が 「参照システム」と呼ばれる。なお、ルーマンのテキストには「作動operation」という奇怪な術語が登場するが、これは──ヴァナキュラーな表現を使えば、要するに──「やりとり」のこと。「システムの作動」という言葉が出てきたら、すべて「やりとり」と読み替えて構わない。
奇怪な日本語(およびドイツ語)に付き合って使用する必要はありません。
※ご参考:
- 作者: J.ハーバーマス,N.ルーマン,佐藤嘉一
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こちらも参照のこと:
我々の出発点は行為の合理性という概念だったわけだが、実はこれは反省性の一応用事例だということがわかった。となると、行為の合理性を反省的メカニズムの合理性の基礎に据えるというのはいかにも無理筋な議論である。行為の合理性を反省的メカニズムとして捉えることはできても、反省的メカニズムを行為の合理性として捉えることは不可能なのだ。[...]
http://d.hatena.ne.jp/takemita/20080320/p1
- 機能の観点からいえば、最高度の複雑性をもった世界との関係において、人間の複雑性吸収能力が増大すること、これが合理的ということである。また
- 構造の観点からいうと、過剰に複雑な世界の中で生きていかざるを得ない人間が、それでも生活を維持していけるようにシステムが安定していること、これが合理的ということである。