涜書:『20世紀ドイツの政治理論』

夕食前半。

ソーンヒルの本に いんすぱいや〜された特集だそうです。
現代ドイツの政治思想家―ウェーバーからルーマンまで

現代ドイツの政治思想家―ウェーバーからルーマンまで


とりあえず、

抱腹絶倒七転八倒しながら読んだあと

  • 永井健晴、「ユルゲン・ハーバマスの政治理論」
  • 加藤秀治郎、「ダーレンドルフの政治・社会理論──ドイツ・欧州の政治・社会動向とからめて」

を読んで、あとぱらぱらしてみた。


「20年前の自分のラベリング id:contractio:20060809:1155096395 は間違っていた」(大意)と小野さんはおっしゃるのですが...。しかしねぇ。
 ほとんどのどの著作でもそうだけど、ルーマンの議論は、主張(に見えるところ)の「骨子」だけ抜き出してしまえば、おおむね糞常識的なものであるか、まるのままほぼそのまんまな先行研究があるか、という事情があるわけで。

たとえば『宗教の機能』であればトレルチとかターナーとかとかの議論が先にあり、『情熱としての愛』であれば愛の概念史研究が先にあり、などなど。

だからそこルーマンの議論の眼目があるわきゃーないわけです。ふつーに糞常識的に考えて。
それ──私の謂う*1ルーマンに新しいものなし」という事情──を気にせずに「主張」を「理論」として「要約」してしまえば、取り出せるのは「どこかでみた糞のように常識的なよくある議論」なだけですよ。

そういう点で言えば、そのレベルルーマンを読んでいるひとは、
「そんなつまらない読み方をして いったい何が嬉しいのですか」と尋ねたくなるけど、
要するに、単に教養に問題があるだけな なんか間違っちゃってる わけであります。

「政治システム」についての議論もことは同様であるわけでして、そういう仕方で糞常識

ex.「政治っていうのは Politik と Verwaltung と Publikum からなりますよね」とか

を「骨子」としてまとめて「ルーマン政治理論」と呼んでみせたうえで、しかもそこに、研究するまえからあらかじめもっていたであろうラベル(「リベラリズム」とか「ネオリベ」とか「保守」とか「テクノクラティック」でもなんでもいいけど)を──そのラベルについてのなんの吟味もなしに──ペタリと貼付けるようなやりかたで論文を書くから、ヘンなことになるんじゃないですかねぇ。

前者はほとんどルーマンの側に責があるけど、後者はそうじゃないですわな。

「20年前の小野さんが間違っていて、今回のは正しい」わけではなく、またその逆でもなく、敢えて言えば「どっちも──おなじ仕方で──間違っている(=ラベルを張り替えただけ)」ってことはありませんか〜??


まぁこれ↑を「ルーマンの擁護」として読まれてしまうと私も困るのですがー(大笑。


ところで政治学会の年報というものを初めて読んだのですが、文末に「今年の収穫」的な文献紹介がのっているのがとても素晴らしいとおもいます。


ところでこっち↓のほうは読んでみた?>yutacake

Niklas Luhmann's Theory of Politics and Law

Niklas Luhmann's Theory of Politics and Law

ペーパーバックも出たようです。asin:1403998019

*1:©西田幾多郎 et al.