昼食。購入&読了。
- 作者: 小田中直樹
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/06
- メディア: 新書
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ポスト近代主義者は自律性なんて嘘っぱちだといったけど、認知科学・脳科学の知見によると 自律性には脳科学的・認知科学的な基盤=根拠があることがわかってきたらしいよ(大意)
Ω ΩΩΩ<な、なんだってーっ!?
生物学者は物理学的知見に反したことを言ってはいけません。同様に 社会科学者は脳科学や認知科学の知見に反したことを言ってはいけないでしょう。よく知らんけどたぶん。 でまぁ、ここには特に何も問題はない。
ところで我々は、たとえば 踊ることができますが、それは重力を利用してなのであって、重力に反してのことではありません。重力がなければ踊ることはできない、という意味で、重力はダンスの可能性の条件ではあります。でも、「どうやったらうまく踊れるか」ということは、重力の性質を調べてみてもわかりません。それに我々は、重力を利用して、踊る以外のこと──走ったり寝たり本を読んだり──もできるのでした。
もしも自律性が「脳科学的・認知科学的な根拠による事柄」であるのならば、それは、社会科学者が頭を悩ませる必要のない事柄だということにもなるんじゃないでしょうか。
またもしも自律性が「脳科学的・認知科学的な基盤を利用した事柄」なのであれば、脳科学的・認知科学的な知見は、自律性というトピックにとっては本質的なことではなく、したがってそれを根拠に社会科学的主張(?)──ex.「ポスト近代主義者の言ってることはおかしい」とか──をするのはヘンじゃないでしょうか。
またもしも自律性が「脳科学的・認知科学的な基盤を利用した事柄」なのであれば、脳科学的・認知科学的な知見は、自律性というトピックにとっては本質的なことではなく、したがってそれを根拠に社会科学的主張(?)──ex.「ポスト近代主義者の言ってることはおかしい」とか──をするのはヘンじゃないでしょうか。
小田中さんによると、ポスト近代主義のひとはたとえば、「我々は権力の網の目に捉えられている」(大意)とか言ったそうです。
これ↑↓がどういう意味なのか 私にはわかりませんがー。
で そこから「だから自律性なんてない」(大意)とかとも言ったのだそうです。
もしも、それに抗して自律の可能性を擁護したいのなら、たとえば、
- 「我々の暮らしが隅々まで微細な権力にとらわれている」なんてことはない
とか、
- 「我々の暮らしが隅々まで微細な権力にとらわれている」ということは、「我々が自律性を獲得できるかどうか」とは関係ない
とか、
- 「我々の暮らしが隅々まで微細な権力にとらわれている」ということは、我々が自律性を獲得するための基盤でもあり得る
とかとか(以下略)といったことを示せればいいだけですよね。