矢田部「親密性と汝指向」

昼食。

  • 矢田部圭介、2005、「親密性と汝指向:シュッツの〈形式的な概念〉が示唆すること」『ソシオロジスト』(No.7)、武蔵社会学

2周目。主題──というか対象(?)──が、我々の日射報告と被っているということもあり、ちょっと詳しく吟味しつつ再読。2度読んだところで、こいつを 報告の形でも聴いていることを思い出した(報告を聴いた時には議論が理解できていなかったわけであります)。 報告は難しかったが、論文のほうは とても明快で分かり易く、いろいろ勉強になる。とともに幾つか疑問が。
 「Dasein*」が〈形式的〉な概念として提出されざるを得ないのは、シュッツが〈前述語的/類型的〉という区別しか使えないような議論の組み立てを採用しているからではないか。

ちなみに、この議論において、〈形式的〉という語は、〈内容を充填される以前の形式/形式に充填される内容〉という区別の一項になっている。そしてそれが、〈前述語的/類型的〉という区別と 重_ね_あ_わ_せ_て 用いられるのである。
だから/言いかえると、〈形式的〉という言葉は冗長な仕方で使われている、と言える。

やりとりのありかた──言いかえると、「それはどのようなシステムであるのか」ということ──と切り離して「類型(化)」という概念を用いてしまうから、「類型化以前のものなどあるのか」とか「“ひと-と-居合わせる”と謂うときの、その“ひと”というのは、すでに類型化されているのではないのか」などなどといった、解決しがたい──というよりも、私が思うには そもそも問う必要のない──「難題」が持ち上がるのではないのか。などなど。
要再読。

あと、いつも思うことだが、日本語には〈ある/いる〉という区別があって便利だ(逆にいうと、これに相当するものがない言語を使っている人は たいへんだなぁ。ご苦労様です)。ハイデガーにこの区別が使えたら、『存在と時間isbn:4423196263』は、3分の1くらいの厚さで しかももっと分かり易く書けたのではないかしら。そうなると有り難みも少なくなる(?)から あれでいい気もするけど。
というか現存在分析のところは省略できないので3分の1にはならないと思いなおしてみた。
 a〈-である/-がある〉と b〈ある/いる〉とは、──直観的にいって──使い方が異なる別の区別であるように思われるのだが**、或る種の特殊なひとびとは、しばしばうっかり「aとbの関係」──とか、「bはどのように〈基礎づけ〉られるのか」とか──を問うてしまい、そのことによってスペキュレイティヴな「問題」を作り出しているように思われる。‥‥という点についてそのうち再考すること。>俺
* これが我々の報告における、Anwesen(heit) に相当すると考えられる。
** にもかかわらず、「ある」「いる」とか──「〜がある」「〜である」とか──を一緒くたにして「存在」と呼んでみたり、さらに「存在論」などという名称のもとで そいつらをまとめて扱ってしまおうとすると、「家に帰りたくない」という以外には特に明確な意向がなく しかも帰りたくない理由を本人も よくわかっていない家出少年のように あてどなく彷徨うことになる。「それで君、お金いくらもってるの?」とか尋ねてみたくもなるのだが、まぁそれもまた人生。 お戯れする貴重な自由。


というか ろんふんを書かねば。